ぱふゅめも 「Perfumeと後期近代」

GAME(DVD付) 【初回限定盤】

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参考映像(中田ヤスタカ完全プロデュース楽曲のPV)
「コンピューターシティ」(2006年1月11日)
「エレクトロ・ワールド」(2006年6月28日)
「チョコレイト・ディスコ」(2007年2月14日)
「Twinkle Snow Powdery Snow」(2007年2月14日)
「ポリリズム」(2007年9月12日)
「Baby cruising Love」(2008年1月16日)
「マカロニ」(2008年1月16日)
「シークレットシークレット」(2008年4月16日)

――ちなみにPerfumeは、くくりとしてはアイドルでいいんですかね?
のっち 「何でもいいです。どこのくくりでも」


――Perfumeはどんな存在になりたいですか?
のっち 「どこにも属さない、ちょっと変わった人達でいたいです」
あ〜ちゃん 「「変な人」って言われたいです!」


livedoorニュース インタビュー:Perfume(2007年9月12日)
http://news.livedoor.com/article/detail/3302952/


部室にて。
BさんがPerfumeヘビーローテーションで聴いていてうるさい・・・汗。


「ハマってますね。それはどうでもいいんですけど、もっと静かにしてもらえませんか?(怒)」

B 「そうカッカするなよ。これも研究なんだからさ」

「なんの研究っすか!」

B 「もちろん、来たる新社会(10年代)を見据えるための研究だよ」

「はあ・・」

B 「Perfumeの当人たちは、当初は、SPEEDのようなかっこいい存在をめざしていたらしい*1。また、今ではニコニコでのアンチ・コメントで見られるように、モー娘と比較されることが多い。しかし、明らかに、Perfumeには、SPEEDにもモー娘にも回収されない、新しい要素がある。それが何なのか。そこが、10年代に向かおうとしている今の文化潮流の、クリティカルポイントだよ」

「はあ・・そうなんですか」

B 「で、その要素というのは、おれから見ると、「フリーダム」だね。何にもとらわれない「自由さ」

  • 女性アイドルグループの伝統(かっこよさとかわいさの二極分化)に縛られない、自由で斬新なダンス*2。さらに、地元性を抑制しない「広島弁トーク」。これら2点が、SPEEDとの違いだ(しかしこれら2点は、モー娘とある程度共通する点であり、だからこそ、アンチによってモー娘と比較されてしまう)。
  • さらに、プロデューサー(つんく中田ヤスタカ)の権威に縛られない、自由な言動(中田は意識的に彼女たちにフラットに接するようにしているし、彼女たちも中田を「電池を食ってる」「姿勢がよい」などとトークのネタにしたり、口真似をしたり、「近所のお兄ちゃんみたい」と話している*3)。これがモー娘との違いだ。
    • もちろん、よく指摘されるように、既存のアイドル曲の常識に囚われない「ヘビーなテクノサウンド」も、自由さの一つであり、重要な魅力だ。しかし、「サウンドの新しさ」(新ジャンルの開拓)という点は、SPEEDやモー娘においても、それら以前のグループとの比較で言えば、指摘できた点であり、実は、さほど本質的ではない。歌い手が流行るには、常に「新しいサウンド」が必要なのだ。・・しかし、数ある新ジャンルの中で、なぜ「ハードロック」や「クラシック」などではなく、「テクノ」なのか? それについては後で述べよう。
    • また、掟ポルシェ氏が雑誌『m9』創刊号で指摘したように、既存のアイドル曲とは一線を画した「擬似恋愛ではない歌詞」も確かに重要だ。しかしこれは氏も指摘したように、モー娘にも一部当てはまる点であり、やはりPerfumeの新しさを十分に言い当てているとはいい難い。
    • さらに、歌詞について言えば、そのポスト決断主義的な「終わりのある日常」を描いた内容も、重要だろう。これについてはさわやか氏による歌詞解釈(これこれ)を参照。さらに実は、Perfumeというユニットそのものが、「終わりのある日常」として、当人たちには現象している(「ずっとPerfumeのままでいたいです。ひとりひとりがソロでどうのこうのとかそういうのではなくて、やめるときは3人同時に。」「うん、3人同時にやめますよ。」*4)。このようにPerfume現象は、東浩紀宇野常寛論争の文脈においても、良い素材である。
  • なお、ニコニコのアンチ・コメントで言及されるような、アイドルらしからぬ「ルックスの平凡さ」も、「アイドルの伝統に縛られていない」という点で、「自由度の高さ」を強調している。この点はPerfume当人たちも自覚的に演出しており、たとえば、「アクターズスクール広島時代では、メンバー3人のうち2人が下位クラス(Dクラス)に所属していた」という逸話や、「売れない時期が長く続いた」という苦労話を、TVで頻繁にトークのネタにしている。


こういった「伝統・権威に縛られないこと」(自由さ)は、ギデンズの言う「再帰性だ。


近代とはいかなる時代か? ─モダニティの帰結─

近代とはいかなる時代か? ─モダニティの帰結─


そして、再帰性」という観点から見ると、Perfumeの最大の特徴である「無感情な歌い方」「ロボットダンス」(=テクノ)の、社会的意味が明らかになる
もちろん、「テクノユニット」を目指しているから、意図的に「無感情な歌い方」(古くはYMOのような、最近では初音ミクのような)と「ロボットダンス」をしているわけなのだが、問題は、なぜ今「テクノ」(無感情)が流行るのか、という点だ。
権力論の文脈で言えば、再帰性の低い前期近代では、内面に介入することで国民の人口を調整する「規律訓練権力」が支配的だった。そこでは、国民の内面を統制する規範・表現が支配的だった。そこで支配的な規範・表現は、たとえば出産を促す結婚イデオロギーであり、国民の内面を統制する感情豊かな表現だった。代表例が、生涯一人の人と寄り添う「ロマンチック・ラブ」であり、国民を扇動する「軍国歌」だったわけだ。
それに対して、再帰性の高い後期近代では、内面に介入せずに国民の人口を調節する「環境管理権力」が支配的になる。そこで支配的な規範・表象は、たとえば「親密な関係性」(家族・友人・恋人)においては、結婚・出産・離婚の自由化イデオロギーであり、それを概念化したのが、ギデンズの「純粋な関係性」(相手がいつでも替わりうる)だ。また、たとえば「表象の消費空間」においては、感情を削いで解釈を自由化した表象*5であり、その代表例が、無感情な「テクノ」だ。


モダニティと自己アイデンティティ―後期近代における自己と社会

モダニティと自己アイデンティティ―後期近代における自己と社会

親密性の変容

親密性の変容


つまり、再帰性の低い時代(前期近代)では、「感情豊かな表象」が支配的になり、再帰性の高い時代(後期近代)では、「感情を削いだ表象」が支配的となる。よって、初音ミクPerfumeの無感情な歌い方やロボットダンス(テクノ)は、今突入つつある後期近代においてこそ、流行るのだ
そういう意味で、Perfumeが「『近未来』テクノユニット」と自称するのは、ある意味、正しい。その場合、「近未来」というのは、後期近代を意味している。


このように、これまでになく高い再帰性(これまでになく高い自由度)こそが、Perfumeの流行の第一原因であり、魅力である
そして、自由度の高さは、ジャンルを越境する力の高さを意味する。だからこそ、彼女たちはアイドルファンだけでなく幅広い音楽リスナーをも、男性だけでなく女性をも、若者だけでなく年配者をも、魅了している*6のだ


なお、Perfumeの高い再帰性(自由度)は、Perfumeの自己認識にも現れている。下記で引用したインタビュー発言によれば、Perfumeの自己像は、前期近代的な「反省的自己」(特定の自分らしさに固執する自己像)ではなく、後期近代的な「再帰的自己」(その場ごとの複数的な自己像)である。再帰性の上昇による「自己像の変容」――反省的自己(前期近代)から再帰的自己(後期近代)へ――については、鈴木謙介カーニヴァル化する社会』p.128-129を参照。

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)




・・とまあ、俺はこう思うんだけどね」


「はいはい、再帰性の高まりですね。どうでもいいですから、ヘッドホンで一人で聴いてください」

B 「サーセン」




かしゆか 「んーなんかあのー、枠にとらわれないで、すごい、自分たちのやりたいことを、自由にできるグループではいたいなーとはすごく思います。なんか、私たちはこうあるべきだからこうじゃなきゃだめであれはやりたくないとか、これはイメージと違うからそれはだめとか、そういうのは無しで、すごい、自分たちも楽しいし、周りの人も楽しめる、いろんなことを、全然なんか、こう、これはだめとかあれはだめとか考えないで、すごい幅広くやっていきたいです」

のっち 「うん、なんかゆるるうく、ずっと三人でなんか、やってたいね」

あ〜ちゃん 「そう、です・・・」

三人 「うふふふふふ、はははははははは」

かしゆか 「かたい(笑)」

のっち 「あ〜ちゃん(笑)」

あ〜ちゃん 「(笑)。最近片言になっちゃうんですよ。だから頭悪いんだと思うんですよね、たぶん。はい(笑)」

かしゆか 「考えながらしゃべってんだろうね(笑)」

あ〜ちゃん 「そうかなあ(笑)」

あ〜ちゃん 「まーでも、なんか、アイドルっていうのも、別に全然いやじゃないし、むしろ嬉しいよね」

のっち 「うん」

かしゆか 「うん」

あ〜ちゃん 「嬉しいし、なんかアーティストって言われても、ん?アーティスト?って感じだし、だからどっちにも当てはまらないっていうか、どっちもどっちみたいな。あ〜ちゃんですかしゆかですのっちです三人合わせてパフュームですとか、そんなのアイドルしかやらないと思うので、それはやっぱアイドルの内に入ってんのかなーとも思うし、でも、ライブのときのあんなグダグダなトークは、絶対アイドルはしないと思うんですよ。アイドルの人たちは絶対決まった台本とかが、ちゃんとあってちゃんとそれ通りに、こう可愛く、こう『好きなものはパフェです♡』みたいな、そういうのがたぶんアイドルの方々だと思うので、アイドルってこう、言うのも、なんか言ってもらうのも申し訳ないぐらいの感じで、だから、ほんとどこにも当てはまってないと思うので、でもそこが、ある意味いいというか、こう、いい意味で、こう何にもとらわれていないっていうか。でもそこはやっぱ大事にしていきたいっていうか、のはありますね。うん」



――テレビ埼玉「HOT WAVE」Perfumeロングインタビュー(2007年9月6日23:00-23:55)
http://www.youtube.com/watch?v=wgCeZeXKkBw&feature=related

GAME

GAME



*1:http://news.livedoor.com/article/detail/3470801/?p=4

*2:また、インタビューでよく話題に上がるように、歌詞に合わせて1番と2番で微妙に異なる振り付けも、これまでにない特徴だ。これは、アイドル曲の表現が自己準拠的(=再帰的)になったことを意味しており、後に述べる「社会の再帰性の上昇」(後期近代)とまさに対応している。

*3:http://jp.youtube.com/watch?v=89G8J9hEKg4&feature=relatedhttp://www.nicovideo.jp/watch/sm3056047

*4:http://magazine.music.yahoo.co.jp/spt/20080411_001/interview_003

*5:この点は、NHKトップランナー」(4月15日放映)で、Perfumeの当人たちが、はっきりと説明していた。「椅子に座って、何も考えずに歌う。立つと力が入って熱唱してしまうからだめ。何も考えずに歌うのがいちばんよい。感情を込めないことによって、聴いている人がいろんな捉え方ができるようにしている。それがPerfumeの曲の良さ。一つの物語を提供するのではなく、人それぞれの感じ方ができる。」http://jp.youtube.com/watch?v=L-l5vPAg0mc

*6:http://ja.wikipedia.org/wiki/Perfume#.E5.B9.85.E5.BA.83.E3.81.84.E3.83.95.E3.82.A1.E3.83.B3.E5.B1.A4

あずめも 「東浩紀の独白」

部室でのひとこま。



A 「東浩紀がなかなか共感できることを語っているよ」

  • 問題意識
    • 一つの「大きな社会」(かつてあらゆるジャンルの小説が代弁しようとしていた公共性)と多数の「小さな社会」(今や「純文学」「ライトノベル」「ケータイ小説」がそれぞれ別々の「小さな社会」を代弁している)の並立が、今後の社会の現実。
    • そこで、「大きな社会」は、「小さな社会」とは別のメカニズムで動くべき。
    • 「大きな社会」は「小さな社会」の調節装置として機能するべき。
    • じゃあ、それはどういう調節装置? どういう機能? どういうメカニズム?
    • それが今後の課題。
  • 問題の解決戦略
    • 「評論・思想・研究」という形(先行研究を踏まえる形)(たとえば「情報技術と社会契約」みたいな主題で)では、時間がかかりすぎる。
    • そこで、まずは、「小説」という形ガリバー旅行記みたいに全く別の社会を描く)で試みる。


B 「いや、だからさ、「〈公共性〉の条件」を読めよw」
A 「・・・」


ま、Aさんはただ語りたいだけなんだよ。




うのもえ 第8話 「宇野と東の相違点・共通点」

まだ寒い部室にて。


A 「B、これどうよ?」

決断主義トークラジオAlive2 ビューティフル・ドリーマー」 の帰結

    • 個人的には、2次元より3次元のほうが好き。
    • オタクの中には、ほんとうは3次元での「小さな成熟」(擬似家族での承認獲得。日常の終わりを自覚しながら生きることで得られるもの)を求めているのに、その欲求を抑圧して、2次元に逃避しているヤツが、多数派なはず。だから、そういうヤツは、3次元で試行錯誤して、本来の希望通りに、「小さな成熟」を獲得すべき。そして、そういうヤツが、ちゃんと3次元で試行錯誤できるように、社会設計すべき。
    • 個人的には、3次元より2次元のほうが好き。
    • オタクの中には、ほんとうは3次元が好きなヤツなんて、ごく少数なはず。だから、そういうヤツは「小さな成熟」を獲得すべきだろうけど、でも、大多数は、そういうヤツではないので、そのまま2次元を楽しむべき。そして、「そういう多数派の2次元オタクでも、生きられるような、自由な社会」を、設計すべき。
  • 二人の主張の共通点
    • 各人は、自分の本来の希望を叶えるべきだ。【リベラリズム
    • でも、リベラリズムだけだと、夜神月的な決断主義(自分の個人的な価値観をあらゆる他者に強いようとする者)の暴走(他者性への抑圧=暴力)を、止められない。では、その暴力を最小化するには、どう社会設計すべきか? 【リベラリズムの弊害を防ぐための社会設計】
    • そういった決断主義者がいることを前提にして、そういった決断主義者の力を制限する(月からデスノートをとりあげる)際の意志決定を、できるだけ柔軟なシステムで構築するしかない。【社会設計の提案】(alive02_04の20:00あたり)


B 「ふうん、まあ、いいんじゃないの。で、その『柔軟なシステム』っていうのは、具体的にはどういうシステムで、どうやって構築するんだろうね?」
A 「そこは二人とも、まだ分からないみたいだね」
B 「ふうん」
A 「・・・」
B 「なんつーか、それじゃあ、社会設計については、特に目新しい提案はないね。むしろ『思想』942〜947号(岩波書店、2002〜2003年)の「〈公共性〉の条件」とかを、読んだほうがいいんじゃないの? 上の提案なんかはすでに折込済みで、さらにその先のことを提案していると思うけど・・?」
A 「・・・」


もう終了かよw





うのもえ 第7話 「『耳すま』にみる後期近代的成熟」

S-Fマガジン 2008年 03月号 [雑誌]

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耳をすませば [DVD]

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久々に部室に入ると、Bさんのパソコンの前に、汚いメモが置いてあった。


「ちょ、Bさん、なんですか、これ!? すっごいいろいろ書いてありますけど、全然読めないですよ?(笑)」
B「ああ、それね。うん、ちょっとね、『耳すま』について考えてみてさ」
「あー、Bさんの好きな『耳をすませば』ですね。でも、こんなに何を考えたんですか?」
B「聞きたい?」
「はい」
B「じゃあ話そうか。いやね、またAがうのもえでさ」
「はあ、いつものことですね」
B「でさ、あいつほんとに、ただ宇野常寛さんに萌えてるだけなんだよ」
「まあ、『うのもえ』ですから」
B「だからだめなんだよ、『うのもえ』はさ」
「というと?」
B「真の評論読者というものは、自分自身が評論的な思考をしなくてはいけない。つまり、宇野さんの評論を読んで、それに批判を加えるか、それか、それに完全に賛成ならば、その『先』を自ら考えてみなければならない。そういう批判的な、または前進的な思考なしに、ただ宇野さんの評論に賛同しているだけじゃ、ちゃんと評論を読んだことにはならないんだよ」
「相変わらず厳しいですねえー」
B「いや、当然だよ。だからおれはいつも批判を加えているわけだ」
「まあ、それはいいとして、で、それが『耳すま』とどう関係するんですか?」
B「ああ。それが、Aが言うにはさ、宇野さんの今回の評論、つまりSFマガジン3月号の評論は、あまりにも素晴らしい、と。だから是非読んでくれと。でさ、読んでみたわけよ」
「どうでした?」
B「うん、たしかに良かった。おれもね、今回の評論には賛同したわけだ」
「珍しいですね。じゃあ、Bさんは評論読者としては失格なんじゃないですか?」
B「いやいや、賛同する場合には、評論読者は、その評論の『先』を考えればいいんだよ」
「あ、そうでしたね。じゃあ、その『先』を考えたわけですね?」
B「そうだ」
「で、その『先』に、『耳すま』があったと?」
B「そういうわけだ」
「わけが分かりません!」
B「だろうな(笑)。説明しよう。

宇野さんの今回の評論の主題は、こうだ。つまり、ポストモダンで流動的でリゾーム的なバトルロワイヤル状況が「当然の前提」となってしまった後期近代において、個人の〈成熟〉とは何か? つまり、後期近代という社会像を前提にしたとき、「社会に対峙している」つまり「社会的現実を受け入れた上で、その社会的現実を生きることに喜びを見出すことができている」(成熟している)とは、どういう状態なのか? これが今回の問いだ。で、宇野さんの提示する答えは、こうだ。つまり、後期近代における成熟の条件は、まず第一に、流動的な社会を生きるために必要な試行錯誤であり、その試行錯誤を可能にする環境(関係の流動性に耐え得る家族外共同体、いわゆる擬似家族)であり、その環境を設計・整備するアーキテクト(環境設計者)の存在である。しかし、この試行錯誤は、友人関係のような可逆的な(修復可能な)人間関係についてしか、適用できない。たとえば、性愛や死を伴うような不可逆的な人間関係については、単なる試行錯誤だけでは、その人間関係で負う取り返しのつかない傷には、何ら対応できない。試行錯誤だけを提供するならば、大人は、子どもが傷を負ったときに、何も語る言葉を持てなくなってしまい、したがって、子どもに対して「成熟とは何か」「大人とは何か」ということを言語的にも行動的にも示せなくなってしまうのだ。よってこれは、〈成熟〉の内破へとつながってしまう――ちなみに宇野さん自身はここまで論理的に明快な説明はできていない。だからこの説明はおれのオリジナルだ。宇野さんにはもうちょっとがんばってほしいものだね――。さて、したがって、後期近代的成熟の第二の条件として、こういった性愛や死といったような不可逆的な人間関係について、その不可逆的現実を受け入れつつ、そこから生きる喜びを見出す方法、が見いだされねばならない。しかしそれはまだ見出されておらず、宇野さん本人にも分からない。だから、「あとはただ、祈ることしかできない」と、宇野さんは評論を締めくくるのだ。

おしまい」
「なるほどー。しかしBさん、つくづく宇野さんに厳しいですね」
B「ほっとけ。でな、おれは、この第二の条件が放っておかれてしまっているのが、どうも気になるんだ。『祈るしかない』って、ちょっと物足りなくはないか? そりゃ『祈る』ことも大事だけれども、評論家ならば、『語る』ことを放棄してほしくはない。そこでだ、その『先』をおれなりに考えてみたわけだよ」
「真の評論読者として、ですね?」
B「そうだ」
「ということは、その、後期近代における成熟の第二の条件、が、『耳すま』を評論することで、見えてくる、というわけですか?」
B「おお、お前勘がいいな。それなら話は早い。まさに、そういうことだ」
「でもBさん、『耳すま』って、もう13年前の映画ですよ? いくらなんでも、古すぎじゃないですか? ゼロ年代以前の作品ですよ?」
B「それがな、『耳すま』は特別なんだよ。まあ、聞いてくれ。

まず、なぜ、『耳すま』が、後期近代にとって、重要なのか?
その理由は次のとおり。

  • 脚本と絵コンテを描いた、宮崎駿は、後期近代つまりグローバル時代において、最もグローバルに評価されている表現者の一人であること。
  • その宮崎駿作品の中でも、本作は、唯一、「異時代ではなく現代を描き、かつ、ファンタジーではなく現実世界を描いた作品」であること。しかも、そこで描かれている現代というのは、本作公開の1995年の日本であり、まさに、地下鉄サリン事件阪神淡路大震災によってポストモダン(=動物の時代=後期近代)へと「本格的に」突入した瞬間の社会であること。

よって、本作は、後期近代を代表する表現者の一人である宮崎駿が、後期近代への転換期において、後期近代を直接描いた、「唯一の」作品である。
しかも、本作は、少女や少年の成熟をテーマにしている
したがって、後期近代における成熟を考えるには、うってつけの素材である。


では、本作において、成熟を可能にしている条件とは、何であったか?


まず、先ほどの第一条件が、まさに中心的に描かれている。

  • 「流動的な社会を生きるために必要な試行錯誤」=「家族外共同体(擬似家族)の形成」、「文芸の創作」。
  • 「その試行錯誤を可能にする環境(擬似家族・共同体)」=家族外共同体を育んだり文芸創作の試行錯誤を温かく見守る場としての、「(1)学校内:保健室」、「(2)学校外:図書館」、「(3)さらに新たな場:地球屋」。
  • 「その環境を設計・整備するアーキテクト(環境設計者)」=「(1)保健室のコウサカ先生」、「(2)図書館で働く父親たち」、「(3)地球屋の主人であるおじいさん」。


これらの条件の下で、主人公雫は、家族外共同体を形成し、文芸を創作して、社会における自らの「生きる場」「生き方」を獲得していく(成熟していく)。しかも、その「生きる場」や「生き方」が、「学校」という前期近代的な装置(規律訓練的装置)を越え出るものであることが、重要である。ここにこそ、彼女の成熟が「後期近代の成熟」(流動的社会において固定的組織に頼らない成熟)である所以である。


このように、後期近代的成熟の第一条件と、それのもとでの後期近代的成熟は、本作で、十分に描かれている。
では、問題は、第二条件のほうである。その一つの案を得るためにこそ、本作『耳すま』に着目しているのだから。


ここで、本作のもう一つの主題は、「性愛」(恋愛と結婚)と「死」(または行方不明=関係性の不可逆的な消滅)であった。つまり、雫と聖司との間の恋愛・結婚、また、杉村の雫への失恋、そして、おじいさんとそのかつての恋人との恋愛。これらは、すべて、不可逆的な関係性である。さらに、おじいさんのその恋は、結局、戦争によって恋人が行方不明になる(または連絡が取れなくなる)、という「死」の暗示、あるいは少なくとも「関係性の不可逆的消滅」が、描かれている。よって本作は、実は、まさに後期近代的成熟の第二の条件をも、主題に含んでいたのである。


では、本作で提示される、その成熟の第二条件とは何か? つまり、彼らの恋愛の不可逆性について、いかなる成熟の態度(その不可逆性を受け入れた上で、そこから喜びを得る態度)が、描かれているのか?


結論から言おう。その成熟の第二条件とは、「間共同体的象徴を媒介とした、『異世代間での希望の相互贈与』」である。


ここでも分かりやすく箇条書きにしておこう。

  • 「間共同体的象徴」(複数の共同体を渡り歩く象徴的存在)=
    • (1)「猫の人形≒猫のムーン」(おじいさんとその恋人に、恋人同士としての「約束」をもたらした人形。ドイツから日本へ持ち込まれて、共同体を越えた価値をもつ人形。おじいさんの世代から雫の世代まで、世代を越えて価値をもつ人形。さまざまな家=共同体を渡り歩いてさまざまな名前をもつ猫。雫とおじいさん、そして雫と聖司をむすびつけた猫)
    • (2)「主題歌カントリーロード」(アメリカから日本へ持ち込まれ、世代を越えて歌われる。おじいさんたちと雫・聖司とが、世代を超えてともに歌う。さらに明示的には、この歌は、「中学校の新入生へ贈る歌」として歌われる。よって、世代を越え、共同体を越えるものとしての象徴)
  • 「異世代間での希望の相互贈与」=
    • (1)おじいさんは雫に、文芸創作の希望を与える。雫はおじいさんに、恋人との失われた関係性の、時代・世代を越えた間共同体的価値存在(文芸作品)への昇華、という希望を与える。これこそが、上述の「性愛・死の不可逆性」を受け入れた上で、さらにそれを超えて「生きる喜び」(希望)をもたらしている。ここに、成熟の第二の条件がクリアされている。つまり、「不可逆的人間関係」からは、「間共同体的象徴(ムーン・人形)を媒介として、新たな間共同体的価値存在(文芸作品)を生み出す」という方法で、「生きる喜び」(希望)を生み出すことができるのだ。
    • (2)同様に、カントリーロードという歌を新入生に贈り、さらに、宮崎はその歌を本作品の主題歌とすることで、その歌を、本作品を観る次世代へと、贈っている。これは、本作品自体が、世代を越えた間共同体的象徴であることを示唆している。それをまさに暗示しているのが、本作品の監督である。つまり、本作品は、絵コンテを宮崎が描いたにもかかわらず、監督の座を次世代の近藤に贈与しているのだ。こうして本作品は、作品内容的(コンスタティブ)にも、さらに、作品製作行為的(パフォーマティブ)にも、「次世代への、間共同体的象徴の贈与」となっている。さらに、それにより、次世代は贈与主に、「有限な時間を生きていることの喜び」(希望)をもたらしてくれる。つまり、新入生に歌を贈るために替え歌を作ることで、彼女たちは「私たちも歌おうよ」と思える自分たちのテーマソングを得て、自分たちの有限な中学校生活から喜びを引き出すことができる。また、宮崎は、本作品が次世代に歓迎されることで、自分の作家人生が間共同体的な価値をもつものであることを、信じることができる。希望の交換が、こうやって世代間でなされるのだ。


このように、後期近代における成熟の第二条件は、「間共同体的象徴を媒介とした、『異世代間での希望の相互贈与』」である。なぜなら、以上で見てきたように、間共同体的象徴(猫の人形≒ムーン、カントリーロードの歌、宮崎が山小屋で偶然見つけた『耳すま』原作マンガ)をきっかけとして、異世代との接面において、新たな間共同体的価値存在(文芸作品、替え歌、映画)が生まれ、それを異世代同士(雫⇔おじいさん、先輩⇔新入生、宮崎⇔観客の子どもたち)で贈与しあうことで、「性愛や死などの不可逆性」(恋人の行方不明、自分たちの卒業、宮崎本人にいずれ確実に訪れる死)を受け入れた上で、そこから「生きる喜び」(次世代において希望の物語が生まれること、自分たちの歌を歌う喜び、自分の作家人生に価値があったという実感)を、生み出すことができるからである。


って、かなり雑に説明したけど、分かった?」
「いえっ、全っ然分かりませんっ!」
B「まあ、簡単にまとめればだな、大人たちは、『共同体や世代を越える象徴』(芸術作品など)を使って、次世代(子どもたち)とコミュニケートせよ。その中で、『共同体や世代を越える象徴』を、新たに生み出せ(大人側から、または、子ども側から)。すると、大人側も子供側も、『共同体や世代を越えて価値のあるもの、を生み出せる喜び』を感じて、『不可逆的で有限な自分の生』に喜びを感じられるようになる。つまり、流動的な現実に喜びを感じられるようになる。これが後期近代における成熟である
「あー、じゃあ大人側だけから見れば、次世代と交流をして、『次世代に歓迎される贈与』を行えば、自分の有限な生に喜びを感じられるようになる、ってことですか?」
B「そうだけど、それだけじゃない。次世代の子どもたちは、上の世代からそういう贈与をされることで初めて、『成熟とは何か』『大人とは何か』を身をもって知ることができるんだよ。そこにこそ、この贈与が相互贈与であり、成熟のモデルである所以があるんだ
「あーなるほどー。じゃあ、世代を越えて価値のあるものを、次世代に贈与せよ。それを贈与されてこそ、次世代の子どもたちは成熟するのだ、ということですね」
B「そういうことだね」
「なんとなく分かった気がします」


とは言ったものの、なんか複雑で難しい話だったな・・・。




うのもえ 第6話 「精神分析から交流分析へ」

私は、数ヶ月ぶりに、部室の扉の前に立っていた。
この数ヶ月間、本職に追われていて、この部室に足を運ぶことができずにいたのだ。
少し緊張しながら、扉を開ける。
Bさんが、少し眠そうな顔を、パソコンからこちらへと向けてくれた。


B「おう、C。久しぶりじゃん」
「はい」
B「元気にしてた?」
「ええ、まあ、ぼちぼち・・。Bさんもお元気そうでなによりです」
B「まあ、おれはな・・」
「Aさんは?」
B「ああ、あっちで寝てるよ」
「あ、ほんとだ。あれ、『SFマガジン』の1月号ですね。またうのもえですか?」
B「みたいだね。ほんと、好きだよな、あいつは」

S-Fマガジン 2008年 01月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2008年 01月号 [雑誌]

「もう議論は交わしたんですか?」
B「まあね。あいかわらず、あいつは宇野常寛さんにべったりでさ。あいつによれば、今回の宇野さんの結論は、こうなんだそうだ。つまり、『開かれた、網状の、しかし終局のある(=内在的な)人間関係(身近な共同体)を構成しつつ、しかし、その構成のためにこそ、自らの孤独を引き受ける。それによって初めて、暴力・虚無感・思考停止を回避しながら、流動性の高い現代社会(後期近代)を生きることができる』、と。で、Aはそれを絶賛するわけだね。深々と共感しながら」
「で、Bさんはどう思うんですか?」
B「うーん、どうだろうね。まあ、その結論そのものは、いいと思うんだよ。でもねえ、そのような抽象的な結論であれば、すでに、臨床心理学でのこれまでの議論と、変わらなくなってしまう気がする」
「へえ、その臨床心理学での議論というのは?」
B「おれが連想したのは、精神分析』(前期近代)から『交流分析』(後期近代)へ、という、流行技法の時代的変遷だね」
「?」
B「つまり、こういうことだよ。

  • 20世紀初頭のヨーロッパ(前期近代!)で生まれた「精神分析」は、いわば、「患者のゆがんだ超自我の代わりに、分析家の客観主義的で寛大な(=親として理想的な)超自我を――転移を通して――再インストールする」、という技法。
  • それに対して、20世紀後半のアメリカ(後期近代!)で生まれた「交流分析」は、いわば、「患者の超自我−自我−エスの構造(三つの自我状態のバランス)のゆがみを、周囲の人たち(身近な共同体!)による基本的肯定の反応(ストローク)を通して、直し、『自我(大人的自我状態)が超自我(親的自我状態)とエス(子供的自我状態)を支配してバランスをとる』という理想的自我状態を、もたらす」、という技法。


だから、精神分析から交流分析への心療技法の転換は、

  • 「分析家という超越的他者(私の全てを理解してくれる絶対的他者、すなわち、流動的近代社会に観測定点をもたらしてくれるもの)共依存する、あるいは、その超越的他者を内面化する生き方」(宇野さんの言うセカイ系


から、

  • 「周囲の内在的な他者たちとの人間関係(終局のある共同体)を構成することで、超越性を欠いたままに、理想(超自我)と現実(エス)とのバランスを保つ生き方」(宇野さんの言うポスト決断主義


へ、という「生き方モデルの転換」を意味している。


だとすれば、宇野さんが結論として提言した生き方、というのは、すでに、臨床心理学の分野では1960年代に提言されていた、ということになる。たとえば、その代表的著作は、エリック・バーン『人生ゲーム入門――人間関係の心理学』(原著1964年、邦訳1967年)だ。


まあ、たぶんね、宇野さんはこういう臨床心理学の大きな潮流を、知らないんだろうね。だから、サブカル研究で得た上の結論を、まるで最新の視点であるかのように、論じることができているんだと思うよ」
「あいかわらず辛口ですね・・」
B「まあね」
「でも、Bさんも、宇野さんの評論の内容を知って改めて、上のような臨床心理学の潮流の重要性を、再認識できたんではないのですか?」
B「まあね、そうかもしれないね」
「だったら、宇野さんの評論は、現代のぼくらにとって、価値がありますよ。だって、そういう重要な視点の、まさに現代的重要性を、再認識させてくれたわけですから」
B「まあね、そうかもしれないね」
「だったら、宇野さんを見下すような発言をしちゃあ、いけませんよ」
B「まあね、そうかもしれないね」
A「・・・るっさいなあーもう、寝かせてくれ・・・」
「・・・」
B「・・・」


人生ゲーム入門―人間関係の心理学

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初音ミク論(3) 「初音ミクの魅力は人間性か機械性か?」

地味に好評(?)の「初音ミク論」のつづきです。

また興味深いご意見をいただきました。
そのおかげで、さらに考察が深まったように思います。
「通りすがり」さんと「yuuboku」さんの弁証法的なご議論に、感謝いたします。


まず、「通りすがり」さんのご意見から。

通りすがり 『色んな感じ方があると思いますが、うまく人の歌を歌っているのを紹介するのは、初音ミクブームを紹介するための手段としては、何かズレている気がします。
せめてオリジナルソングを紹介してください。
個人的には、『初音の』に代表されるアホの子っぽい歌い方に魅力を感じました。
まるで機械が生きているように感じられたのは、うまく歌えてないからだったのだと思います。
駄文失礼します。』


そして、それに対する「yuuboku」さんのご意見。

yuuboku 『せっかくいいこと言ってるのにコメント欄にがっかりだ。「私の時間」のラスサビ前を参照。』(はてブのコメント)


上でご紹介いただいた初音ミクのオリジナル曲「私の時間」は↓です。



果たして、初音ミクの魅力は、「人間への接近性」なのか「あくまで機械的な不器用さ」なのか?


おそらく、私のように「人間への接近性」に萌える人たちもいれば*1、通りすがりさんのように「機械的不器用さ」に萌える人もいるのでしょう。
そしてまた、私も部分的には、初音ミクの歌い方に感じられる「機械的不器用さ」にも、多少萌えています。


むしろ、こう言うべきでしょうか。人間性と機械性の共存という、これまでの歌手にない前代未聞の両義性が、初音ミクの魅力である」と。
とりあえずは、こう結論づけておきます。

なお、これまでの議論に関連づければ、

  • 人間性 = 感情移入の閾値を越えた「固有の声紋」をもつこと = 固有性
  • 機械性 = 複製品として流通し、同型のものが各人のパソコンの中に実在していること = 複数性

というように対応づけることができます。
すなわち、

  • 初音ミクの魅力 = 人間性(固有性)」と「機械性(複数性)」とを兼ね備えていること = 従来の消費文化(および言語体系)には無かった「両義的存在」であること



*1:なお、上記「私の時間」が、初音ミク曲の週間ランキング1位になったことがあるそうなので、こういった人々は、初音ミクファンの中ではけっこう多数派なのかもしれません