東浩紀が後藤和智を支持する理由

神が死んで、人間が自分自身で考えねばならなくなった「近代」(デカルト、ベーコン)以降の思想には、「合理論(on演繹法byデカルト)」(主にヨーロッパ)と「経験論(on帰納法byベーコン)」(主に英米)という二つの系譜がある。


日本のこれまでの思想は、ドイツ観念論やフランス現代思想(いずれも合理論の系譜)の影響が強いため、「合理論」に依拠してきた。つまり、基本的には、頭の中で考えるだけ。演繹法


しかし、世界的に広まっていたマルクス主義が、冷戦終結によって下火になり、それにともなって、マルクス主義を生んだドイツ観念論(もとは合理論)もまた、説得力が削がれてしまい、かわりに、英米思想(経験論)が世界で広まっていった。


英米思想の代表は、クワインホーリズムであり、もとはパースらのプラグマティズムだ。
そこでは、つねに経験的な実証によって、あらゆる見解が修正される。(修正主義)
そういったプラグマティズムクワインの流れを受けて広まったのが、ローティの反本質主義なのですよ。


で、東浩紀は東大時代に、ローティ紹介者の野家啓一の授業を受けて、ローティに深く感銘。
環境管理型権力という発想は、もとはドゥルーズから拝借したものの、ローティ的な生物学主義的な見方で、それを「仕方ないもの」として受容したわけです。


こうして、東浩紀の思想の底には、ローティへの、つまり、経験論への諦念(仕方ないものとして受け入れる姿勢)がある。


で、後藤和智は、「合理論には経験的根拠がない。経験論で検証しなければならない」というわけですね。
東浩紀も、経験論の「仕方なさ」は十分に分かっているため、後藤和智を一蹴できないわけです。



ちなみに、「合理論」から「経験論」へ、というポスト冷戦時代の思想の流れは、人類普遍の構造を見つけようとする「構造主義」から、すべてを社会的に構築されたものとしてとらえる「構築主義」へ、という現代思想の流れとも符号しています。



しかし、後藤和智らの経験論者は、構築主義に学ぶべきところもあるでしょう。
統計学的実証という手続きは、さまざまな前提の上に立って成立していますが、それらの前提(有意水準だとか、母集団の特定の分布性だとか、回答拒否者の無視だとか)の「正当性」は、近現代において、社会的に構築されたものです。
ほんとうに「疑い」たいのならば、それらの前提の「正当性」こそを、「疑わ」なくてはならないでしょう。


でも、すぐわかるように、そこまで疑っていたら、無限後退して、思考・判断できなくなります。


結局は、どこで区切りをつけるか、という恣意的な問題。


他人の恣意性を批判する前に、まずは、自分の恣意性を自覚化し、それを明言すべきでしょう。



・・という以上の戯言は、私自身への戒め、としてのメモ書きです。