うのもえ 第7話 「『耳すま』にみる後期近代的成熟」

S-Fマガジン 2008年 03月号 [雑誌]

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耳をすませば [DVD]

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久々に部室に入ると、Bさんのパソコンの前に、汚いメモが置いてあった。


「ちょ、Bさん、なんですか、これ!? すっごいいろいろ書いてありますけど、全然読めないですよ?(笑)」
B「ああ、それね。うん、ちょっとね、『耳すま』について考えてみてさ」
「あー、Bさんの好きな『耳をすませば』ですね。でも、こんなに何を考えたんですか?」
B「聞きたい?」
「はい」
B「じゃあ話そうか。いやね、またAがうのもえでさ」
「はあ、いつものことですね」
B「でさ、あいつほんとに、ただ宇野常寛さんに萌えてるだけなんだよ」
「まあ、『うのもえ』ですから」
B「だからだめなんだよ、『うのもえ』はさ」
「というと?」
B「真の評論読者というものは、自分自身が評論的な思考をしなくてはいけない。つまり、宇野さんの評論を読んで、それに批判を加えるか、それか、それに完全に賛成ならば、その『先』を自ら考えてみなければならない。そういう批判的な、または前進的な思考なしに、ただ宇野さんの評論に賛同しているだけじゃ、ちゃんと評論を読んだことにはならないんだよ」
「相変わらず厳しいですねえー」
B「いや、当然だよ。だからおれはいつも批判を加えているわけだ」
「まあ、それはいいとして、で、それが『耳すま』とどう関係するんですか?」
B「ああ。それが、Aが言うにはさ、宇野さんの今回の評論、つまりSFマガジン3月号の評論は、あまりにも素晴らしい、と。だから是非読んでくれと。でさ、読んでみたわけよ」
「どうでした?」
B「うん、たしかに良かった。おれもね、今回の評論には賛同したわけだ」
「珍しいですね。じゃあ、Bさんは評論読者としては失格なんじゃないですか?」
B「いやいや、賛同する場合には、評論読者は、その評論の『先』を考えればいいんだよ」
「あ、そうでしたね。じゃあ、その『先』を考えたわけですね?」
B「そうだ」
「で、その『先』に、『耳すま』があったと?」
B「そういうわけだ」
「わけが分かりません!」
B「だろうな(笑)。説明しよう。

宇野さんの今回の評論の主題は、こうだ。つまり、ポストモダンで流動的でリゾーム的なバトルロワイヤル状況が「当然の前提」となってしまった後期近代において、個人の〈成熟〉とは何か? つまり、後期近代という社会像を前提にしたとき、「社会に対峙している」つまり「社会的現実を受け入れた上で、その社会的現実を生きることに喜びを見出すことができている」(成熟している)とは、どういう状態なのか? これが今回の問いだ。で、宇野さんの提示する答えは、こうだ。つまり、後期近代における成熟の条件は、まず第一に、流動的な社会を生きるために必要な試行錯誤であり、その試行錯誤を可能にする環境(関係の流動性に耐え得る家族外共同体、いわゆる擬似家族)であり、その環境を設計・整備するアーキテクト(環境設計者)の存在である。しかし、この試行錯誤は、友人関係のような可逆的な(修復可能な)人間関係についてしか、適用できない。たとえば、性愛や死を伴うような不可逆的な人間関係については、単なる試行錯誤だけでは、その人間関係で負う取り返しのつかない傷には、何ら対応できない。試行錯誤だけを提供するならば、大人は、子どもが傷を負ったときに、何も語る言葉を持てなくなってしまい、したがって、子どもに対して「成熟とは何か」「大人とは何か」ということを言語的にも行動的にも示せなくなってしまうのだ。よってこれは、〈成熟〉の内破へとつながってしまう――ちなみに宇野さん自身はここまで論理的に明快な説明はできていない。だからこの説明はおれのオリジナルだ。宇野さんにはもうちょっとがんばってほしいものだね――。さて、したがって、後期近代的成熟の第二の条件として、こういった性愛や死といったような不可逆的な人間関係について、その不可逆的現実を受け入れつつ、そこから生きる喜びを見出す方法、が見いだされねばならない。しかしそれはまだ見出されておらず、宇野さん本人にも分からない。だから、「あとはただ、祈ることしかできない」と、宇野さんは評論を締めくくるのだ。

おしまい」
「なるほどー。しかしBさん、つくづく宇野さんに厳しいですね」
B「ほっとけ。でな、おれは、この第二の条件が放っておかれてしまっているのが、どうも気になるんだ。『祈るしかない』って、ちょっと物足りなくはないか? そりゃ『祈る』ことも大事だけれども、評論家ならば、『語る』ことを放棄してほしくはない。そこでだ、その『先』をおれなりに考えてみたわけだよ」
「真の評論読者として、ですね?」
B「そうだ」
「ということは、その、後期近代における成熟の第二の条件、が、『耳すま』を評論することで、見えてくる、というわけですか?」
B「おお、お前勘がいいな。それなら話は早い。まさに、そういうことだ」
「でもBさん、『耳すま』って、もう13年前の映画ですよ? いくらなんでも、古すぎじゃないですか? ゼロ年代以前の作品ですよ?」
B「それがな、『耳すま』は特別なんだよ。まあ、聞いてくれ。

まず、なぜ、『耳すま』が、後期近代にとって、重要なのか?
その理由は次のとおり。

  • 脚本と絵コンテを描いた、宮崎駿は、後期近代つまりグローバル時代において、最もグローバルに評価されている表現者の一人であること。
  • その宮崎駿作品の中でも、本作は、唯一、「異時代ではなく現代を描き、かつ、ファンタジーではなく現実世界を描いた作品」であること。しかも、そこで描かれている現代というのは、本作公開の1995年の日本であり、まさに、地下鉄サリン事件阪神淡路大震災によってポストモダン(=動物の時代=後期近代)へと「本格的に」突入した瞬間の社会であること。

よって、本作は、後期近代を代表する表現者の一人である宮崎駿が、後期近代への転換期において、後期近代を直接描いた、「唯一の」作品である。
しかも、本作は、少女や少年の成熟をテーマにしている
したがって、後期近代における成熟を考えるには、うってつけの素材である。


では、本作において、成熟を可能にしている条件とは、何であったか?


まず、先ほどの第一条件が、まさに中心的に描かれている。

  • 「流動的な社会を生きるために必要な試行錯誤」=「家族外共同体(擬似家族)の形成」、「文芸の創作」。
  • 「その試行錯誤を可能にする環境(擬似家族・共同体)」=家族外共同体を育んだり文芸創作の試行錯誤を温かく見守る場としての、「(1)学校内:保健室」、「(2)学校外:図書館」、「(3)さらに新たな場:地球屋」。
  • 「その環境を設計・整備するアーキテクト(環境設計者)」=「(1)保健室のコウサカ先生」、「(2)図書館で働く父親たち」、「(3)地球屋の主人であるおじいさん」。


これらの条件の下で、主人公雫は、家族外共同体を形成し、文芸を創作して、社会における自らの「生きる場」「生き方」を獲得していく(成熟していく)。しかも、その「生きる場」や「生き方」が、「学校」という前期近代的な装置(規律訓練的装置)を越え出るものであることが、重要である。ここにこそ、彼女の成熟が「後期近代の成熟」(流動的社会において固定的組織に頼らない成熟)である所以である。


このように、後期近代的成熟の第一条件と、それのもとでの後期近代的成熟は、本作で、十分に描かれている。
では、問題は、第二条件のほうである。その一つの案を得るためにこそ、本作『耳すま』に着目しているのだから。


ここで、本作のもう一つの主題は、「性愛」(恋愛と結婚)と「死」(または行方不明=関係性の不可逆的な消滅)であった。つまり、雫と聖司との間の恋愛・結婚、また、杉村の雫への失恋、そして、おじいさんとそのかつての恋人との恋愛。これらは、すべて、不可逆的な関係性である。さらに、おじいさんのその恋は、結局、戦争によって恋人が行方不明になる(または連絡が取れなくなる)、という「死」の暗示、あるいは少なくとも「関係性の不可逆的消滅」が、描かれている。よって本作は、実は、まさに後期近代的成熟の第二の条件をも、主題に含んでいたのである。


では、本作で提示される、その成熟の第二条件とは何か? つまり、彼らの恋愛の不可逆性について、いかなる成熟の態度(その不可逆性を受け入れた上で、そこから喜びを得る態度)が、描かれているのか?


結論から言おう。その成熟の第二条件とは、「間共同体的象徴を媒介とした、『異世代間での希望の相互贈与』」である。


ここでも分かりやすく箇条書きにしておこう。

  • 「間共同体的象徴」(複数の共同体を渡り歩く象徴的存在)=
    • (1)「猫の人形≒猫のムーン」(おじいさんとその恋人に、恋人同士としての「約束」をもたらした人形。ドイツから日本へ持ち込まれて、共同体を越えた価値をもつ人形。おじいさんの世代から雫の世代まで、世代を越えて価値をもつ人形。さまざまな家=共同体を渡り歩いてさまざまな名前をもつ猫。雫とおじいさん、そして雫と聖司をむすびつけた猫)
    • (2)「主題歌カントリーロード」(アメリカから日本へ持ち込まれ、世代を越えて歌われる。おじいさんたちと雫・聖司とが、世代を超えてともに歌う。さらに明示的には、この歌は、「中学校の新入生へ贈る歌」として歌われる。よって、世代を越え、共同体を越えるものとしての象徴)
  • 「異世代間での希望の相互贈与」=
    • (1)おじいさんは雫に、文芸創作の希望を与える。雫はおじいさんに、恋人との失われた関係性の、時代・世代を越えた間共同体的価値存在(文芸作品)への昇華、という希望を与える。これこそが、上述の「性愛・死の不可逆性」を受け入れた上で、さらにそれを超えて「生きる喜び」(希望)をもたらしている。ここに、成熟の第二の条件がクリアされている。つまり、「不可逆的人間関係」からは、「間共同体的象徴(ムーン・人形)を媒介として、新たな間共同体的価値存在(文芸作品)を生み出す」という方法で、「生きる喜び」(希望)を生み出すことができるのだ。
    • (2)同様に、カントリーロードという歌を新入生に贈り、さらに、宮崎はその歌を本作品の主題歌とすることで、その歌を、本作品を観る次世代へと、贈っている。これは、本作品自体が、世代を越えた間共同体的象徴であることを示唆している。それをまさに暗示しているのが、本作品の監督である。つまり、本作品は、絵コンテを宮崎が描いたにもかかわらず、監督の座を次世代の近藤に贈与しているのだ。こうして本作品は、作品内容的(コンスタティブ)にも、さらに、作品製作行為的(パフォーマティブ)にも、「次世代への、間共同体的象徴の贈与」となっている。さらに、それにより、次世代は贈与主に、「有限な時間を生きていることの喜び」(希望)をもたらしてくれる。つまり、新入生に歌を贈るために替え歌を作ることで、彼女たちは「私たちも歌おうよ」と思える自分たちのテーマソングを得て、自分たちの有限な中学校生活から喜びを引き出すことができる。また、宮崎は、本作品が次世代に歓迎されることで、自分の作家人生が間共同体的な価値をもつものであることを、信じることができる。希望の交換が、こうやって世代間でなされるのだ。


このように、後期近代における成熟の第二条件は、「間共同体的象徴を媒介とした、『異世代間での希望の相互贈与』」である。なぜなら、以上で見てきたように、間共同体的象徴(猫の人形≒ムーン、カントリーロードの歌、宮崎が山小屋で偶然見つけた『耳すま』原作マンガ)をきっかけとして、異世代との接面において、新たな間共同体的価値存在(文芸作品、替え歌、映画)が生まれ、それを異世代同士(雫⇔おじいさん、先輩⇔新入生、宮崎⇔観客の子どもたち)で贈与しあうことで、「性愛や死などの不可逆性」(恋人の行方不明、自分たちの卒業、宮崎本人にいずれ確実に訪れる死)を受け入れた上で、そこから「生きる喜び」(次世代において希望の物語が生まれること、自分たちの歌を歌う喜び、自分の作家人生に価値があったという実感)を、生み出すことができるからである。


って、かなり雑に説明したけど、分かった?」
「いえっ、全っ然分かりませんっ!」
B「まあ、簡単にまとめればだな、大人たちは、『共同体や世代を越える象徴』(芸術作品など)を使って、次世代(子どもたち)とコミュニケートせよ。その中で、『共同体や世代を越える象徴』を、新たに生み出せ(大人側から、または、子ども側から)。すると、大人側も子供側も、『共同体や世代を越えて価値のあるもの、を生み出せる喜び』を感じて、『不可逆的で有限な自分の生』に喜びを感じられるようになる。つまり、流動的な現実に喜びを感じられるようになる。これが後期近代における成熟である
「あー、じゃあ大人側だけから見れば、次世代と交流をして、『次世代に歓迎される贈与』を行えば、自分の有限な生に喜びを感じられるようになる、ってことですか?」
B「そうだけど、それだけじゃない。次世代の子どもたちは、上の世代からそういう贈与をされることで初めて、『成熟とは何か』『大人とは何か』を身をもって知ることができるんだよ。そこにこそ、この贈与が相互贈与であり、成熟のモデルである所以があるんだ
「あーなるほどー。じゃあ、世代を越えて価値のあるものを、次世代に贈与せよ。それを贈与されてこそ、次世代の子どもたちは成熟するのだ、ということですね」
B「そういうことだね」
「なんとなく分かった気がします」


とは言ったものの、なんか複雑で難しい話だったな・・・。