初音ミク論(2) 「データベース消費から固有性消費へ」
初音ミク論のつづきです。
いただいたご意見のおかげで、視点が一段と深まりました。
「・・・」さんに感謝いたします。
・・・ 『「声優さんモノマネ機械」にしか聞こえません。
中国人が日本語で歌ってるみたいにも聞こえます。』・・・ 『>「声紋」のような固有的な機能
それは音声合成で、コンピュータゲームでは昔からあった
ですよ。』
ukpara 『なるほどー。貴重なご意見をありがとうございます。
もしそうだとすれば、私たちはむしろこう問うべきでしょうね。
「なぜ、2007年になって合成音声に萌える人が急増したのか? 合成音声の技術は昔から徐々に漸進的に進歩してきた。だから「客観的には」、2007年に「革新的に」その技術が進歩したわけではない。そうではなく、むしろ「共同主観の中で」、その技術が「2007年に革新的に進歩した(閾値を超えた)」かのようにみなされたのだ。つまり、「人々の合成音声への感情移入の閾値超え」(=合成音声の「固有」化!)が、2007年に、社会的に構築されたのである。では、なぜ2007年なのか?」
このように問いをより客観的にすることで、私たちの初音ミク論は、一気に学問的重要性を増します。
なぜ2007年に、合成音声は、(かつてない規模の人々の共同主観において)「固有性」を獲得したのでしょうか。
これが、真の問題ですね。
私が思うに、この問題の答えは、すでに『涼宮ハルヒの憂鬱』テレビ版の最終回のキョンの台詞のなかに、垣間見られていたのではないでしょうか。つまり「ハルヒはハルヒであってハルヒでしかない」というあの台詞です。あれは、「ハルヒの属性が重要なのではなく、ハルヒの固有性(固有名)が重要なのだ」ということでしょう。つまり、「属性萌え」に飽きてきた(?)オタクたちは、「固有性萌え」を欲望し始めていたのではないか。その欲望が、一つの合成音声を(あるいは単なる藤田咲の複製声紋を)「初音ミク」という固有性として、彼らの共同主観内で、認識した(社会的に構築した)のではないか。
以上のように考察を深めることで、私たちの初音ミク論は、より本質的な問題へと深化します。それは、
「なぜ、00年代後半になって、オタクたち(東浩紀のいうデータベース消費者たち)の間で、その消費形式と反するような『固有性への欲望』が生まれたのか?」
という問題です。
ここに、「データベース消費」(属性萌え)と「固有性消費」(固有性萌え)との弁証法が、現出します。』
初音ミク論(1) 「初音ミクの拓いた新時代――複数的固有性の誕生
まずは、初音ミクを体験していただこう。これに萌えたら、以下の論考は理解しやすい(ほんとか?)。
- 従来の消費文化=「属性(相対的差異=たとえば人工の『萌え要素』)の消費」(東浩紀の「データベース消費」)
- このとき、「A(消費対象=萌え要素の集積体)はおれの嫁」と言われる。
- →Aは可能世界の住人。
- →Aは世界のどこかに「一人だけ」存在する。だから「おれの嫁」と主張して奪い合うことができる。
(参考資料)まとめ動画
↓
「属性(相対的差異)の消費」(属性萌え)から「複数的固有性(絶対的差異)の消費」(固有性萌え)(この「複数的」というのが、新しいと同時に不気味である)へ。
この新消費文化(固有性萌え文化)は、いかなる社会的現実(コミュニケーション)を生成していくのだろうか?
複数的固有性(複数性を帯びた固有性)の誕生。
新しい言語世界。
新しい現実世界。
*1:初音ミクが、以前のボーカロイド(MEIKOなど)とは異なり、初めて「姓」を持ったことも、重要だろう。つまり、少なくとも日本人にとって、より現実的に、「固有名」を持った存在(固有的存在)になったのである。
*2:たとえば、かつての「たまごっち」や「AIBO」などは、固有性が低かった。商品名が固有名らしくないし、また、「声紋」のような固有的な機能は備えていなかったからである。また、ギャルゲーに登場する少女たちは、いまだ、従来のマンガ・アニメの登場人物たちと同様に、「世界のどこかに一人いる存在」(各人のPCの中に実在しているわけではない。よってTVアニメ化が可能)だったが、「アイマス」に登場する少女たちは、ギャルゲー(世界に一人)とミク(各PCに内在)との中間に位置づけられる、過渡的存在(もはやTVアニメ化不可能)であったと言えよう。そして、ミクは、製作者側が「未来のアイドル」として「世界のどこかに一人いる存在」としてキャラ設定したにもかかわらず、実際の消費者たちは、その設定を凌駕して、「自分のPCに宿った固有の存在」「自分と一対一の固有の関係をもつ存在」としてミクを消費しはじめたのだ。たとえば、ニコニコ動画で人気なミク動画は、ミクを「PCに宿った固有の存在」として扱っている(オリジナルソング「みっくみくにしてあげる」「タイムリミット」など)。
うのもえ 第5話 「宇野評論の落とし穴」
欧州で土産を買い忘れた私は、おそるおそる部室の戸を開けた。
視界にあの二人が入ってきた。
B「おおー欧州帰り。どうだった?」
「えーまあー古い町並みがきれいでしたねえー」
B「そうかそうかー」
A「どうなの? やっぱ日本のアニメとかマンガは普及してるの?」
「うーん、アニメのDVDはほとんど普及してないですねえ。でも、マンガはたいていの有名どころは英語に訳されていて、たとえば『デスノート』は全巻英語版が平積みになってました*1。あと、もっと人気のものになると、現地の言語に訳されているものも一部ありました。すごいですね、マンガ文化は。『ジャンプ』もそれぞれの言語版が売ってましたよ」
A「そうかそうかー」
・・この二人、返事が一緒じゃないかw
A「ところでさ、今またBと、宇野さんの評論について話してたんだよ」
「あ、最新号出たんですね」
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「へえー。Bさん、うのもえですね」
B「いや、まあ・・」
A「B、つねひらーですね」
B「なんだよ、つねひらーって」
A「うのつねひろ萌えの人」
B「分かりにくいな。別に萌えてねーよ」
A「ふうーん」
B「ま、そんなことはどうでもよくってさ、おれがさっきから言ってんのは、宇野さんの評論は、どうも一点、気になるところがあるってことだよ」
A「まあ、Cにも説明してやってよ」
B「そうだな。
宇野さんの今回の結論は、こうだ。
「00年代前期のクドカンドラマは、夜神月(バトルロワイアル的暴力志向の決断主義)を予防することはできる。しかし、それを治療することはできない。そこで、我々はその治療の方法を探っている木皿泉のドラマに着目しよう」、と。
でもな、この結論は、「我々は夜神月になってはならない」(思考停止と暴力に陥ってはならない)ということが前提になっている。
では、この「我々は夜神月になってはならない」という主張については、その正当性が思考されているのか?
また、この主張が孕む「夜神月的人間への暴力」は、正当化されていいのか? それはなぜか? その問いは思考されているのか?
どうもおれは、この主張は、この主張そのものによって否定されてしまう気がするんだよね。
・・とまあ、そういうことをさっきからAに話しているわけよ」
「なるほどねえー。複雑ですね。いや、むしろシンプルなのか」
B「シンプルだよ。誰もが薄々感じる問いさ。宇野さんの評論に対してね」
A「そうかなあー。宇野さんはすでに、『誰もが、普遍的主張をするときには、決断主義者となってしまう』ということに自覚的だと思うけどなあ」
B「じゃあ、『我々は夜神月になってはならない』という普遍的主張は、なぜ許されているの? その正当性は何だろう?」
A「正当性なんか、無いんじゃないかな。ただ、宇野さんは感情的に、非合理的に、夜神月がお嫌いなんでしょう」
B「じゃあ、正当でない暴力を、夜神月に向けているわけだね。自覚的に。それじゃ、夜神月と一緒なんじゃ? つまり、思考停止と暴力に陥っているんじゃないの?」
A「うーん、わからんー・・」
B「まあ、ややこしい話になってきたから、まあいいんだけどさ。おれは飯食いに行くよ。腹減った」
A「あーじゃあおれもー」
B「C、お前どうする?」
「あー私はさっき食べたんで、いいですよー」
B「りょーかい。んじゃな。また欧州の土産話を聞かせてくれやー」
A「そうだよー」
「あーはいー」
いつもながら、この人たちは議論が好きだなあー。
さーて、らきすた最終回でも観るか。あーもう終わっちゃうのか、早いなあー。
どらめも 「『野ブタ』→『LIAR GAME』→『ライフ』」
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あーあ、しんど、これ・・
「はあ・・・」
B「・・・おい、どうした?」
「え、まあ・・・」
B「なんかあったの?」
「最近、ドラマ版『ライフ』(第1話〜第9話)を観たんですけどね」
B「ああ、あれ、ね」
「なんか、鬱になりますね、あれ」
B「そうね」
「なんつーか、どこかエグい感じがして。いじめっ子の愛海はどこまでも冷徹だし、救い手の羽鳥はどこまでもかっこいいし。ドラマ版『野ブタ』の場合は、いじめっ子の坂東や蒼井も、いじめられっ子の野ブタも、救い手の修二・彰も、みんな強い面・弱い面・冷たさ・温かさを持ち合わせていたから、どこか救いを感じたのだけれど、『ライフ』の登場人物たちは、冷たいヤツはどこまでも冷たく、温かいヤツはどこまでも温かい。それが、どこか非現実的な感じがするし、救いがないような気もするんですよね・・。まあ、まだ全話終わってないので、誤解しちゃってるのかもしれませんけど・・」
B「ふうーん、なるほどね。ということは、今放映中の『ライフ』は、2年前の『野ブタ』よりも、人物設定が非現実的であり、それゆえに、内容も浅い、ということになりそうかな」
「まあ、そうですかねえー」
B「どうなんだろうね。まあ、たしかにおれからみても、羽鳥がなぜあそこまで歩を救いたがるのか――あるいは、なぜあれほどに他人の痛みを放っておけないのか――、その理由がいまいち良く分からないね。その点については、『LIAR GAME』の救い手の秋山のほうが、主人公を救う動機がちゃんと描かれていて、現実味がある。『ライフ』でも、薗田のほうは動機がしっかり描かれているね」
「そうですね。で、同じように、『ライフ』のいじめっ子の愛海があそこまで冷徹である理由も、よくわからないんですよ。同じく冷徹な佐古については、DV被害者という彼の生い立ちが、一応その冷徹さを説明しています。では、愛海は? まあ、明日以降の放送で、そこらへんが描かれていくのかもしれないし、それによって、愛海の冷徹さが相対化されていくのかもしれないんですけどね。――ちょうど、『野ブタ』のいじめっ子蒼井が、『私の存在を覚えててほしい』と、いじめの動機を打ち明けたときのように・・・。そう、そうやって、『いじめをする真の動機』(いかなる目的のためにいじめという手段を使っているのか)が言語化されることで初めて、『いじめ』という行為そのものは、相対化されていくんですよね。それによって、いじめっ子の『いじめっ子性』もまた、相対化されていく。つまり、“その子にも『いじめっ子という性質』以外の性質がある”ということ(“いじめ以外の手段によってもその子は目的を達成できる”ということ)が、(その子を含む当事者たちによって)発見されていく。それが、『いじめ』という現象の解体につながっていくと思うんですよ」
B「うーん、まあそれは確かに正論かもしれないねえ。でもさ、『ライフ』ではすでに、愛海は、『なぜいじめるの? さみしいからじゃないの?』と訊かれて『楽しいからですよ』と答えている。これは、もしこの答えが本心だとすれば*1、『野ブタ』の否定だよね。『野ブタ』の蒼井は、さみしいからいじめていたわけだけれども、『ライフ』の愛海は、楽しいからいじめている。まあ、この言葉が愛海の本心かどうかは、ドラマが全話終わるまでは、分からないけどね。でも、もしこれが本心だとしたら、『ライフ』の問題は、『野ブタ』の解決方法を否定してしまっていて、その方法では解決できない。そういう意味で、『ライフ』は『野ブタ』を越えてしまっていることになる」
「そこがエグいんですよ。愛海の言うように、『いじめ』そのものが目的であるならば、これは救いようがないと思うんです。『野ブタ』の蒼井の場合は、『他者とつながりたい』という後期近代的=ポストモダン的欲求(鈴木謙介さんが言うような)が、いじめの目的だったから、いじめは解体可能だった。蒼井は最終話で『学校に行ったらまた小谷さん(野ブタ)をいじめちゃうから、学校に行かない』と言ってたんですよね。で、野ブタは『それでもいいから、学校に来て』と言う。ここにはもういじめは解体されているわけですよ。なぜ解体できたのか? それは、いじめそのものが目的ではなくて、『他者とつながること』が目的だったからですよ。ところが、『ライフ』の愛海は、『いじめそのものが目的です』と言う。もしこれが本心であれば、このいじめは解体不可能ですよ、原理的には」
B「まあ、原理的にはそうだろうけれども、現実にはどうなんだろう。明日放映の『ライフ』第10話では、予告編によれば、どうやら愛海は、クラスの全員から信用を失うことになるみたいだ。嘘つきだってことがばれちゃうんだろうね。とすると、これは『野ブタ』の修二がクラスの全員から信用を失った状況(第8話)と、同形だ。で、修二の場合は、そのときに野ブタ・彰との関係性――つまり『グレンラガン』のニアが持っていたような、既に築いてきた他者との関係性(時間の不可逆性)――に、救われたわけだ。じゃあ、愛海は? 愛海が持っている唯一の関係性は、みどりとの関係性だと思われる。じゃあ愛海は、そのみどりとの関係性に『救われて』、歩へのいじめを続行していくのだろうか。そうかもしれない。だとしたら、確かに、いじめの解体は難しいね。でも、もし、みどりさえもが愛海のことを嘘つきと思うようになったら、もはや愛海は、いじめを続行したくても、現実的に続行不可能になるんじゃないかな*2。だれも愛海の言葉を信じなくなったら、愛海はいじめをしたくてもできない。そういう『いじめの解体パターン』も、ありうるんじゃないかねえ」
「まあ、そうかもしれないですね。じゃあ、まとめると、
いじめの解体パターン
- いじめが、別の目的のための手段にすぎない場合: いじめ以外の手段によってその目的を達成させてあげることで、いじめは解体される。
- いじめそのものが目的である場合: いじめっ子の言葉を周りの誰もが信じなくなった場合に、いじめは不可能になり、解体される。
・・という感じでしょうか?」
B「そうだね」
「ところで、『言葉を信じるかどうか』という問題は、ドラマ版『LIAR GAME』とも通じる問題ですよね。あのドラマの場合は、主人公(直)は、他人の言葉をすぐに信じてしまう女の子なんですけど、『直が、フクナガに対して平等主義的な所得再分配を行った』という事実――フクナガにとっては過去に前主体的に築いた他者との関係性(時間の不可逆性)――を思い出すことで、フクナガはエゴイズムから脱して、ゲームを平等主義的な結果に導くことになるわけです。で、ラストシーンでは、残った唯一のエゴイストであるヨコヤは、『他人の言葉を信じることで初めて、自分は救われる』という経験をすることになります。前者のフクナガの経験は、『過去の他者との関係性』(時間の不可逆性)という点で、『野ブタ』の修二に通じるテーマですよね。他方、後者のヨコヤの経験は、『エゴイストが他人に信じてもらえるかどうか』(『野ブタ』の修二や、『ライフ』の愛海が陥る問題)ではなくて、『エゴイストが他人を信じられるかどうか』なので、これは新しいテーマですね」
B「そうだねえ。で、その新しいテーマが、今後の『ライフ』にも出てくるかもしれない。つまり、愛海の今後陥る問題として、ね。だとすれば、その問題がどのように描かれていくのか、が見どころになるだろうね」
「ですね」
B「で、どうかな? おれと話すことで、少しは『鬱』は軽くなったかな」
「あ、そういえば・・・なんか、そうみたいです。ありがとうございます」
B「いやいやw で、明日の『ライフ』も観るの?」
「ええ、たぶん。観ちゃうでしょうね」
B「欧州行きの準備はだいじょぶなのか?」
「あーまあ、なんとかなると思います・・」
B「気ーつけてな」
「はい」
あーそうだった。準備、準備・・・。空港バスを予約しないと・・。
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アニメモ 「『ぼのぼの』のこと」
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だいぶ涼しくなってきたのだけれど、まだ蒸すなあー。
もっと薄着にしてくればよかった。
A「あ、B」
B「おう」
「こんばんはー」
B「おう。お前、それ、暑くないか?」
「ええ、まあ、暑いですね。失敗しました」
B「ま、脱げとは言わんけどさ」
「はあ・・」
B「おお、そうだ――なあ、A。『ぼのぼの』って観たことあるか?」
A「ああ、テレビのほう?」
B「いや、映画のほう。初のアニメ化のな。1993年の」
A「ああ、だいぶ昔に観たよ。で、それがどうした?」
B「ああ、まあ、声優陣はテレビ版のほうが好きなんだけどな。今気になってるのはそこじゃなくって、物語テーマのほうだ」
A「うん」
B「あれってさ、一番重要なシーンは、事実確認的(コンスタティブ)には、『ヒグマの大将とスナドリネコさんとの大人な対話』のシーンで、行為遂行的(パフォーマティブ)には、『コヒグマくんが巨大な牛に踏み潰されそうになったときに、ヒグマの大将は“息子のコヒグマくんを救うために命を懸ける”ということをしなかった』というシーンだよな」
A「まあ、最も端的にまとめれば、そうなるだろうね」
B「となると、この映画のテーマは、対話シーンで語られ、命を懸けないシーンで実践されている」
A「まあそうだね。で、問題はそのテーマが何なのか、ということなんだろ?」
B「そうそう。そのテーマは明らかに、『誰かが〈命を懸ける〉という行為をしてしまうと、みんなが命を懸けるようになってしまう。そうなると、生活共同体がバトルロワイヤル状況――つまり万人の万人に対する戦い、つまり生存競争――になってしまって、平和じゃなくなる。だから、〈命を懸ける〉という行為をしてはならない』というヒグマの大将の主張だ*1。それが、大人の考え方であり、大将のライバルであるスナドリネコさんも、それに共感しているようだ。
実は、もともとスナドリネコさんは、そういうバトルロワイヤル状況の世界から命からがら逃れてきて、大将の守っていたこの森に流れ着いたのだった。つまり、スナドリネコさんがかつて住んでいたバトルロワイヤル的世界は、日本で対応づければ、『2001年小泉内閣成立以降の新自由主義社会』であり、ヒグマの大将が守っていたこの平和な森は、『1982年中曽根内閣成立以前の集団主義社会』だ。ここで注意してほしいんだけど、この表を見てくれ。
前期近代 (金本位制・固定相場制:19世紀〜1970年代) |
→ | 後期近代 (変動相場制:1970年代〜) |
|
---|---|---|---|
思想文化 | モダン(大きな物語の単一支配、ツリー構造) | → | ポストモダン(小さな物語の乱立、リゾーム構造) |
社会変化パターン1 | 古典的ナショナリズム(大きな物語=国民国家) | → | 個人主義+新自由主義(アングロサクソン諸国) |
社会変化パターン2 | 古典的ナショナリズム(大きな物語=国民国家) | → | 個人主義+保守主義(大陸ヨーロッパ諸国) |
社会変化パターン3 | 古典的ナショナリズム(大きな物語=国民国家) | → | 個人主義+社会民主主義(北欧諸国) |
社会変化の共通点 | 大きな物語にもとづく集団主義 | → | 大きな物語なき個人主義 |
つまり、日本は、『社会変化パターン1』のほうで変化してきたわけだ。
で、その『集団主義から新自由主義へ』という変化の最初の動きが『中曽根内閣成立』(1982年)であり、その変化の完了を告げたのが『小泉内閣成立』(2001年)だったわけだ」
A「まあ、仮にその政治的な歴史は正しいとして、じゃあ、それが『ぼのぼの』の映画版とどうつながるわけ?」
B「こういうことさ。この新自由主義化という社会変化は、日本では、1982年に始まり、2001年に完了した。この1982年と2001年のちょうど中間は、(1982+2001)÷2≒1992年で、ちょうどそのころ(1993年)に、『ぼのぼの』映画版が公開されたわけだ。つまり、ヒグマの大将のバトルロワイヤル化に対する危惧は、この日本社会のバトルロワイヤル化にちょうど対応していたわけだね。時期的にも、内容的にも。それも1995年よりも前だから、かなり早い時期に、しかも純粋なかたちで、その危惧を表現していたわけだ、ヒグマの大将は」
A「うん、まあ、そうやって政治史的に説明しちゃうと、なんかとてもうすっぺらい内容の映画のように聞こえちゃうから、あんまりそういう説明は好きじゃないけどね。でも、まあ、そういう時代背景があって、なされた主張ではあるんだろう。ヒグマの大将の主張はさ」
B「うん、そういう感じだ。もちろん重要なのは、そういう事実確認的な説明ではなくて、ヒグマの大将が、まさに視聴者が息をのんでいる中で実践した、『コヒグマくんを救わない(=命を懸けない)』という行為だ。この行為が、『バトルロワイヤル状況を引き起こさないための決断』というのがいかなるものであり、いかなるものであるべきなのかを、森の大人たちやぼくら視聴者たちに、行為遂行的に提示し、約束してくれたんだ。で、ぼくは今日ひさびさにこの映画を観直して、『ああ、これは大事なシーンだな。忘れたくないし、ぼくらは忘れちゃいけないな』と思ったから、こうやって君に話すことで、ぼくらの心の中にこのシーンの体験を刻もうとしているんだ」
A「そうか・・」
B「まあ、それだけなんだけどね。話してみると、意外とあっさりしたことになっちゃうんだけど、うーん、なんかな、もっと深いものを感じたんだよ。昔はそれは言葉にならなかったけどね。でも、今はこうやってなんとか言葉にできる。言葉にしてみると、どうも薄っぺらくなっちゃうんだけどさ・・」
A「うん、分かるよ・・」
うーん、ということは、結局は、日本では、ヒグマの大将の時代は終わって、スナドリネコさんがかつていたバトルロワイアル状況の時代になってしまっている、ということか。つまり、『ぼのぼの』(映画版)のテーマは、時代遅れになってしまったということか!? ほんとうにそうなのか?
たとえば、今の時代の精神であれば、ヒグマの大将は、もし息子を救いたいのであれば、共同体の平和を犠牲にしてでも、息子を守る(ために命を懸けて巨大な牛と戦う)べきだったのか?
まあ、そうなるのだろう。『コードギアス』のルルーシュが、まさにそうではないか。妹ナナリーを幸せにするために、世界の平和を犠牲にしてでも、巨大なブリタニア帝国と戦うわけだからw
でも、ほんとうに、ヒグマの大将のあの態度は、もう忘れ去れてもいいのか?
いや、そうじゃないだろう。
あの大将の決断的態度――バトルロワイヤル状況を社会にもたらさないためのサルトル的決断とその実践――には、何かしら学ぶべきものがあるように思える。それが何なのかは、よく分からないけど・・。
今度Bさんにでも訊いてみようっと。
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*1:ちなみに、この主張以外にも、『なぜ楽しいことは終わってしまうの? 終わらなければいいのに…』というぼのぼのの疑問(時間の不可逆性への気づき)もテーマになっていて、その疑問からは『生きることには目的はない。だから、楽しいことが終わってしまってつまらなくなったら、また新しい目的を自分でつくればいいんだ』というサルトル的決断主義が、スナドリネコさんによって導かれている。ただしこれら二つは、もうすでに議論したテーマなので、ここでは敢えて触れない。「時間の不可逆性への気づき」についてはhttp://d.hatena.ne.jp/ukpara/20070831を、「サルトル的決断主義」についてはhttp://d.hatena.ne.jp/ukpara/20070829を参照。
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部室におかしなメモ(印刷ミスの紙の裏に記載)をみつけた。
汚い字とよれよれの線で構成されているそのメモを自分なりに解読してみると、
つぎのようなことが書かれているようだ。
設定比較 | 『涼宮ハルヒの憂鬱』 | 『桜蘭高校ホスト部』 |
---|---|---|
原作 | 2003年6月からラノベシリーズ発行 | 2002年8月から漫画連載 |
売り上げ | ラノベ+コミック=600万部 | コミック=650万部 |
TVアニメ放送期間 | 2006年4月〜7月(2007年8月現在) | 2006年4月〜9月 |
主なターゲット | 美少女萌えの男性消費者+α (ファンの男女比は7:3) | 美少年萌えの女性消費者+α |
歴史的位置づけ | メタ萌えの先駆(萌え文化の再帰化) | メタ萌えの先駆(萌え文化の再帰化) |
物語舞台 | 県立北高校SOS団 | 私立桜蘭高校ホスト部 |
主人公 | キョン | ハルヒ |
集団結成者 | ハルヒ | 環 |
集団の目的 | 退屈しのぎに、不思議なものを探す | 退屈しのぎに、同じく退屈な女生徒たちを喜ばせる |
目的の前提 | この世界は退屈である(終わりなき日常=動物の時代=諸現実の時代=1995年〜) | この世界は退屈である(終わりなき日常=動物の時代=諸現実の時代=1995年〜) |
主人公の立場 | 否応なく集団に参加 | 否応なく集団に参加 |
なんだ、これは・・。
・・とりあえず、見なかったことにしておこう・・。
B「あー、見ーたなー」
「あ、は、はいー、、、」
B「どう、それ?」
「え、どうって、、これ、Bさんが書いたんですか?」
B「まあね。なんとなく考えてしまってね。いつもの癖で」
「で、何かいい発見はあったんですか?」
B「うん、まあね」
「どんな発見ですか?」
B「ああ、聞きたい?」
「えー、まあ、話したくないなら、べつにいいですけど・・」
B「なんだよ、聞けよぉ」
「あー、じゃあ、聞きますよ。ええ、聞きたいですよ」
B「しょうがねえなあー、じゃあ話してやるか」
あーめんどくさい人だなあ、まったく・・。
B「ここ、赤くなってんだろ。『否応なく』ってところ」
「はい」
B「これなんだよ。大事なのは」
「例の、決断主義を越える突破口となる、前主体的な関係性ってやつですね。シモンとニアみたいな」*1
B「良く分かってんじゃねーか。でな、訊くけど、おれたちは、何部だ?」
「え、、?」
B「ここは、何部の部室なんだ? え?」
「そ、それは、、、」
B「ま、いいんだけどさ。つまり要は、ここは何部でもないってことなんだよ」
「・・・」
B「何部でもないけど、何らかの『部』に所属し『部室にいる』ってーことが、大事なんだろ?」
「・・・」
B「で、おれは、何部かも分からないような部の部室に、なぜかいるわけだ。こりゃあ、何だ。つまりおれは、何する部か分からないけど、気づいたらここにいて、なにやらいろいろとしゃべっている。つまりおれも、主体的にこの部を選んだのではなくて――そもそも何部か分からんからな・・――、前主体的にいつのまにかここにいるわけなんだよ」
「・・・」
B「おれだけじゃない。Aだってそうだ。そもそも何だ。AとかBとかって。名前がないじゃないか」
「・・・」
B「まあ、AとかBとかってのは、実名を隠して匿名性を確保するための記号であって、ほんとうは実名がどこかにある、っていうことなんだろうから、それはそれでいい。でもよ、おれが言いたいのはそういうことじゃなくって、こういう『否応なく』できた関係性(部)でも、こうやっておれはお前と話している。それは楽しいことだろ? そういうことなんだ」
「ええ、楽しいです」
B「でもな、おれが発見したのはそれだけじゃないんだ」
「・・?」
B「『涼宮ハルヒの憂鬱』の主人公キョンは、アニメの最終話あたりに、つぶやいていたよな。『いつまでもこういう時間が続けばいいと思っていたんだ』、と。『桜蘭高校ホスト部』のカオルとかハニー先輩とかも、アニメ放送の後半になると、ホスト部の関係性がいつか終わってしまうことに気づき初めて、部の関係性にメタ的(再帰的)な視点を導入してくる。こういった『時間の不可逆性への気づき』は、もともとは、有名なアニメ作品では、1984年の押井守の出世作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』のラムに端を発する(その証左として、うる星2の『学園祭という不可逆的体験の強調』はアニメ版『ハルヒ』にもアニメ版『ホスト部』にもしっかりと受け継がれている)。つまりこの『時間の不可逆性への気づき』は、70年代〜80年代、世界経済システムが『固定相場制』の必然的破綻を迎えて『変動相場制』へと移行し、世界の権力構造がツリー的な『規律訓練権力』からリゾーム的な『環境管理権力』へと変容しはじめ、社会が『前期近代』(反省的近代)から『後期近代』(再帰的近代)へと突入することで、生活世界では『理想の時代』が終わって『虚構の時代』が進行し、超越性が崩れはじめた、まさにそのときに、そういった超越性喪失への歯止めとして、若い世代の想像力の中で、新たに構築された感覚だと思うんだ。その『不可逆性を大事に思う感覚』。それが、宇野さんに言わせれば、決断主義を越える突破口たる『重い現実』の一種であるわけだけれども。で、おれはその感覚を、発見したんだよ。おれたちの中にもね」
「・・・」
B「お前はもう、分かってるんだろ? このメモ的なはてなブログの筆者が、いつかお前であることが公になってしまったとき、『つねに未完成』なんつーこんな気まぐれなブログを、お前はもう書けなくなってしまうだろう。それは、そのときお前が手にしているであろう社会的地位が、そうさせるんだ。そうだろ?」
「いえ、そんなことは、、ない、、しないつもりです。私にとって、このブログは、この複雑で混沌としたアニメバブルのサブカル空間を生きる上で、あと、その空間から何かしら自分にとって大事なものを得る上で、とても必要な、大事なものなんです。だから、Bさんとの関係も、Aさんとの関係も、、」
B「ああ、それは分かってるよ。でもね、きっとそうじゃないんだ。来るときが来てしまった場合、お前はここを捨てるんだよ。この何やらわけ分からない部も、部室も、そして、名前さえ不明なおれたちのこともね・・」
「いや・・」
B「いや、いいんだよ。そうでなくっちゃ、お前はいつまでも世に出て行かない。それじゃあ、せっかくいろいろとネタを提供しているおれたちも、浮かばれないだろ? だからさ、それはいいんだよ。気にしなくていい。いや、気にしてほしいんだけど、そういうふうに遠慮はしなくていいんだ。ただ、おれがこの『二人のハルヒ』のメモで気づいたように、お前にも気づいてほしいと思ってさ。それだけだよ」
「はい・・・」
B「・・・・。あ、そいえばお前、来月9月いっぱい、欧州に行くんだよな?」
「ええ、上旬から月末まで・・」
B「いいよなあー。いいものちゃんと見て来いよ。欧州のサブカル事情も、とくにアニメ・漫画事情も、よく見て来るんだ。きっと何か発見がある」
「ですね。そう努めます」
B「で、行くまでに新訳エヴァは観れそうか?」
「うーん、どうでしょう。早い内に観ておきたいんですけどね」
B「観れるといいな。あ、そういえば、今日のデスノート総集編は、第1部だけで終わって、ライトのターンのままで終わったな。ゴールデンタイムにライト勝利で締めくくるったあ、いい度胸だ。まあゼロ年代らしいけどな」
「ですね(笑)」
B「で、最後のライトの四つん這いシーンは、腐女子向けらしいな。さすが昨今の腐女子文化の躍進ぶりはすばらしい」
「みたいですねー、私には全然分かりませんでしたけれど」
B「ま、いいや。とりあえず、話したかったことは話した」
「はい」
B「いつか、お前はこの部室を去って、おれとAは、消えるんだ。いつか必ず。それだけだよ」
「・・分かりました。肝に銘じておきます」
B「はは、まあ、そんなに気にすんな。一度話しておきたかっただけだから。じゃあな。おやすみ」
「おやすみなさい」
Bさんはドアを閉じて、去っていった。
部室は、急に静かになった。
「もう2時か・・・」
せっかくBさんが話してくれたんだから、これもメモしておこうと思った。
メモが終わったら、私も帰って寝ようとおもう。
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うのもえ 第4話 「三つの決断主義」
蒸した部室に、Aさんが帰ってきた。
帰省先でも町角のしなびた本屋で『SFマガジン』の最新号をせっせと買い込み、宇野常寛さんの連載「ゼロ年代の想像力」を読んでいたというのだから驚きだ。なんという宇野萌え。
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B「好きだねえ・・」
A「まあね」
B「で、どうよ、今回は」
A「うーん、『ワタクシは決断主義を徹底して前提化し、謙虚でエレガントな決断主義、つまり、思考停止と暴力とを肯定しない決断主義を、めざすのであります』っていう結論になっているんだけど、、」
B「ほほう」
A「なんだか、決断主義って言葉の意味がだんだん広がってきているような気がして、ちょっとねえ・・」
B「ちょっと?」
A「うーん、もっと明確に言葉を使って欲しいというか、、」
B「なるほどね」
A「ま、そんなとこだね、感想は」
B「ほんじゃまあ、その決断主義の語義の混乱について、交通整理しておきますか。今後の君との議論を楽しむためにもね」
A「そうだねえ、それ必要だね。ほんとは宇野さんが自分で責任もってそういう交通整理をすべきなんだけどね。まあ、決断主義的にこうやって『新しい評論』を書き始めると、そういう丁寧な交通整理をする暇もなくなっちゃうんだろうね。でも、もうちょっと自分の言説への説明責任を果たして欲しいものだよ」
B「まあ、今後の連載でそういう『語義の拡大化による論旨の混乱』を交通整理してくれるかもよ。期待しておこう。・・でも、おれらは宇野萌えで議論を楽しみたいわけだから、そういう交通整理も自ら楽しんじゃえって感じがある」
A「だね」
B「で、ちょっと君が帰省している間に、考えていたんだ。その『決断主義』についてね。で、今のところのおれなりの交通整理が、これだ。ちょっとこのレジュメを見てくれ。
- 三つの決断主義
- 決断主義1=「統治者(あるいは社会設計者)が、自らの無根拠な暴力を正当化すること」 in シュミット『政治神学』(1922年)=シャアの「粛清」=小泉純一郎の「痛みを伴う構造改革」=後期宮台真司の「敢えて選択」=夜神月の「新世界創造」=ルルーシュの「反逆」=ロシウの「アーク・グレン」。←宇野さんが論じているようで実は論じていない決断主義
- 決断主義2=「諸個人が、自らの無根拠な行為を、その政治性を自覚化する(社会参加する=自分自身だけでなく全人類をもアンガジェ〔拘束〕する)ことで、正当化すること」 in サルトル『実存主義はヒューマニズムである』(1946年)。←宇野さんが肯定する決断主義
- 決断主義3=「諸個人が、生存競争を口実として、自らの無根拠な暴力を正当化すること」 in 社会的ダーウィニズム=ドラマ版『野ブタ。をプロデュース』の修二の初期設定「自分さえ楽しければいい」、『LIAR GAME』のヨコヤの「自己利益最優先」。←宇野さんが批判する決断主義
- 三つの決断主義の共通点=「(統治者あるいは諸個人が)自らの無根拠な選択を正当化すること」
つまり、表にすると、
決断する主体 正当化されるもの 宇野さんはこれを… 決断主義1(シュミットの主権論) 統治者または社会設計者 他者への暴力を正当化 無視している 決断主義2(サルトルの実存主義) 諸個人 政治的行為を正当化 肯定している 決断主義3(社会的ダーウィニズム) 諸個人 他者への暴力を正当化 批判している 上の1〜3の共通点 (共通点なし) 無根拠な選択を正当化 (共通点なし)
で、宇野さんは、決断主義1を事実上無視し(決断主義1を批判するにはシュミット主権論を批判できるだけの政治哲学的技術が必要だものね)、決断主義3を批判し、決断主義2を採用する。それにより、決断主義1の政治状況のなかで、決断主義3を回避しつつ、エレガントな決断主義(決断主義2)を生きていこう、とする。
あれ? じゃあ、宇野さんは結局、社会的ダーウィニズムを批判して、サルトル実存主義を復活させるわけ? いやいや、まさかそれだけでは終わらないでしょう。今後に期待だよ、期待。それだけなら「サルトル読め。以上」で終わりだからねえ・・。
たぶん、サルトル(決断主義2)を無批判に生きてしまうと、社会的ダーウィニズムの暴力(決断主義3)に陥りがちだから、なんとかそれを回避する生き方を探したい、ということなんだろうね。それはおれも同感だな。
まあ、ネット空間では、コミュニケーションのための場が無限にあるから、社会的ダーウィニズムが前提とする「場を奪い合う生存競争」は生じないと思うんだけどね。それは以前から話しているとおりだ。
でも、リアル世界では、新自由主義の政治下では、生存競争は十分に生じてくる。たとえその逆の社会民主主義の政治にして、生存競争を回避したとしても、(鈴木謙介さんが指摘するような)「ポストモダン化とIT化による民主主義の危機」は、回避できない。これが、本当の問題。公共性の問題だね。で、その処方箋として、「時間の不可逆性」に着目する社会設計(政治)を、(決断主義1にもとづいて)行う必要があるかもしれない。これも鈴木謙介さんの主張。この前話したとおりだね。
ちなみに、鈴木謙介さんは、2005年のあるインタビュー*1のなかで、「決断主義自体は善いも悪いもない」と言っている。これはつまり、「決断主義1(シュミットの主権論)は、政治の現実を述べたものであるから、否定できない」ということじゃないかな。
で、その上で鈴木さんは、「問題なのは、決断主義1そのものではなく、決断の内容だ」と言っている。まあそのとおりだろうね。決断主義1を行う統治者が、小泉のような新自由主義者なら生存競争の激しい社会になるし、逆の社会民主主義者なら、生存競争の少ない社会になる。ただそれだけのことだよ。
つまり、おれから見れば、
- 決断主義1(シュミット主権論)は、(鈴木謙介さんの指摘するような)「ポストモダン化とIT化による民主主義の危機」を回避できないから、それだけでは政治理念としては不十分。そこで、「時間の不可逆性」を利用した政治で、この危機を回避するのが可能かもしれない。では具体的にはどうやって? それが現在の探求テーマ。先日は、「グレンラガン」にそのヒントを見つけたりしてみた*2。
- 決断主義3(社会的ダーウィニズム)は、「生存競争のもたらすハラハラドキドキ感」(サバイブ感)が好きな人には、善だし、そのサバイブ感が嫌いな人には、悪。ただそれだけ。それ自体は、善でも悪でもない。むしろ、サバイブ感を嫌いな人に、サバイブ感を強要するのが、悪。だから、各人が「自分がどれほどのサバイブ感の下で生きるのか」を、自由に選択できるようにすればいい。それが、善。
ってことで、真に問題なのは、(鈴木謙介さんの指摘するような)「ポストモダン化とIT化による民主主義の危機」だと思うんだよね。宇野さんはサバイブ感が嫌いだから(サバイブ感を楽しまないから)、決断主義3を批判しているんだろうなあ。でも、決断主義3は、単に、小泉の新自由主義がもたらした「競争激化問題」にすぎない。ポストモダン社会に普遍的に見られる問題ではないし、政治の社会民主主義化によって単純に解決できる問題だと思う*3。
・・とまあ、こんなふうに交通整理(+批判)ができるとおもうんだよね。
でも宇野さん自身は、「決断主義」という言葉のこの三つの語義をちゃんと明確に分けずに、その言葉を使ってしまっているため、読者に無駄な混乱を引き起こしている。いや、あえて混乱させているのかもしれないけど、それは自身を不利な立場に置くんじゃないかな・・。それじゃあ、せっかく文才があるのに、もったいない・・」
A「なるほどねえー。よく整理したもんだね、感服するよ」
B「いやまあ、これも君との議論を楽しむためさ」
この「やおいもどき」の会話はいつまで続くのか!?
(つきあってらんないから、これでおしまい。)
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