うのもえ 第4話 「三つの決断主義」
蒸した部室に、Aさんが帰ってきた。
帰省先でも町角のしなびた本屋で『SFマガジン』の最新号をせっせと買い込み、宇野常寛さんの連載「ゼロ年代の想像力」を読んでいたというのだから驚きだ。なんという宇野萌え。
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B「好きだねえ・・」
A「まあね」
B「で、どうよ、今回は」
A「うーん、『ワタクシは決断主義を徹底して前提化し、謙虚でエレガントな決断主義、つまり、思考停止と暴力とを肯定しない決断主義を、めざすのであります』っていう結論になっているんだけど、、」
B「ほほう」
A「なんだか、決断主義って言葉の意味がだんだん広がってきているような気がして、ちょっとねえ・・」
B「ちょっと?」
A「うーん、もっと明確に言葉を使って欲しいというか、、」
B「なるほどね」
A「ま、そんなとこだね、感想は」
B「ほんじゃまあ、その決断主義の語義の混乱について、交通整理しておきますか。今後の君との議論を楽しむためにもね」
A「そうだねえ、それ必要だね。ほんとは宇野さんが自分で責任もってそういう交通整理をすべきなんだけどね。まあ、決断主義的にこうやって『新しい評論』を書き始めると、そういう丁寧な交通整理をする暇もなくなっちゃうんだろうね。でも、もうちょっと自分の言説への説明責任を果たして欲しいものだよ」
B「まあ、今後の連載でそういう『語義の拡大化による論旨の混乱』を交通整理してくれるかもよ。期待しておこう。・・でも、おれらは宇野萌えで議論を楽しみたいわけだから、そういう交通整理も自ら楽しんじゃえって感じがある」
A「だね」
B「で、ちょっと君が帰省している間に、考えていたんだ。その『決断主義』についてね。で、今のところのおれなりの交通整理が、これだ。ちょっとこのレジュメを見てくれ。
- 三つの決断主義
- 決断主義1=「統治者(あるいは社会設計者)が、自らの無根拠な暴力を正当化すること」 in シュミット『政治神学』(1922年)=シャアの「粛清」=小泉純一郎の「痛みを伴う構造改革」=後期宮台真司の「敢えて選択」=夜神月の「新世界創造」=ルルーシュの「反逆」=ロシウの「アーク・グレン」。←宇野さんが論じているようで実は論じていない決断主義
- 決断主義2=「諸個人が、自らの無根拠な行為を、その政治性を自覚化する(社会参加する=自分自身だけでなく全人類をもアンガジェ〔拘束〕する)ことで、正当化すること」 in サルトル『実存主義はヒューマニズムである』(1946年)。←宇野さんが肯定する決断主義
- 決断主義3=「諸個人が、生存競争を口実として、自らの無根拠な暴力を正当化すること」 in 社会的ダーウィニズム=ドラマ版『野ブタ。をプロデュース』の修二の初期設定「自分さえ楽しければいい」、『LIAR GAME』のヨコヤの「自己利益最優先」。←宇野さんが批判する決断主義
- 三つの決断主義の共通点=「(統治者あるいは諸個人が)自らの無根拠な選択を正当化すること」
つまり、表にすると、
決断する主体 正当化されるもの 宇野さんはこれを… 決断主義1(シュミットの主権論) 統治者または社会設計者 他者への暴力を正当化 無視している 決断主義2(サルトルの実存主義) 諸個人 政治的行為を正当化 肯定している 決断主義3(社会的ダーウィニズム) 諸個人 他者への暴力を正当化 批判している 上の1〜3の共通点 (共通点なし) 無根拠な選択を正当化 (共通点なし)
で、宇野さんは、決断主義1を事実上無視し(決断主義1を批判するにはシュミット主権論を批判できるだけの政治哲学的技術が必要だものね)、決断主義3を批判し、決断主義2を採用する。それにより、決断主義1の政治状況のなかで、決断主義3を回避しつつ、エレガントな決断主義(決断主義2)を生きていこう、とする。
あれ? じゃあ、宇野さんは結局、社会的ダーウィニズムを批判して、サルトル実存主義を復活させるわけ? いやいや、まさかそれだけでは終わらないでしょう。今後に期待だよ、期待。それだけなら「サルトル読め。以上」で終わりだからねえ・・。
たぶん、サルトル(決断主義2)を無批判に生きてしまうと、社会的ダーウィニズムの暴力(決断主義3)に陥りがちだから、なんとかそれを回避する生き方を探したい、ということなんだろうね。それはおれも同感だな。
まあ、ネット空間では、コミュニケーションのための場が無限にあるから、社会的ダーウィニズムが前提とする「場を奪い合う生存競争」は生じないと思うんだけどね。それは以前から話しているとおりだ。
でも、リアル世界では、新自由主義の政治下では、生存競争は十分に生じてくる。たとえその逆の社会民主主義の政治にして、生存競争を回避したとしても、(鈴木謙介さんが指摘するような)「ポストモダン化とIT化による民主主義の危機」は、回避できない。これが、本当の問題。公共性の問題だね。で、その処方箋として、「時間の不可逆性」に着目する社会設計(政治)を、(決断主義1にもとづいて)行う必要があるかもしれない。これも鈴木謙介さんの主張。この前話したとおりだね。
ちなみに、鈴木謙介さんは、2005年のあるインタビュー*1のなかで、「決断主義自体は善いも悪いもない」と言っている。これはつまり、「決断主義1(シュミットの主権論)は、政治の現実を述べたものであるから、否定できない」ということじゃないかな。
で、その上で鈴木さんは、「問題なのは、決断主義1そのものではなく、決断の内容だ」と言っている。まあそのとおりだろうね。決断主義1を行う統治者が、小泉のような新自由主義者なら生存競争の激しい社会になるし、逆の社会民主主義者なら、生存競争の少ない社会になる。ただそれだけのことだよ。
つまり、おれから見れば、
- 決断主義1(シュミット主権論)は、(鈴木謙介さんの指摘するような)「ポストモダン化とIT化による民主主義の危機」を回避できないから、それだけでは政治理念としては不十分。そこで、「時間の不可逆性」を利用した政治で、この危機を回避するのが可能かもしれない。では具体的にはどうやって? それが現在の探求テーマ。先日は、「グレンラガン」にそのヒントを見つけたりしてみた*2。
- 決断主義3(社会的ダーウィニズム)は、「生存競争のもたらすハラハラドキドキ感」(サバイブ感)が好きな人には、善だし、そのサバイブ感が嫌いな人には、悪。ただそれだけ。それ自体は、善でも悪でもない。むしろ、サバイブ感を嫌いな人に、サバイブ感を強要するのが、悪。だから、各人が「自分がどれほどのサバイブ感の下で生きるのか」を、自由に選択できるようにすればいい。それが、善。
ってことで、真に問題なのは、(鈴木謙介さんの指摘するような)「ポストモダン化とIT化による民主主義の危機」だと思うんだよね。宇野さんはサバイブ感が嫌いだから(サバイブ感を楽しまないから)、決断主義3を批判しているんだろうなあ。でも、決断主義3は、単に、小泉の新自由主義がもたらした「競争激化問題」にすぎない。ポストモダン社会に普遍的に見られる問題ではないし、政治の社会民主主義化によって単純に解決できる問題だと思う*3。
・・とまあ、こんなふうに交通整理(+批判)ができるとおもうんだよね。
でも宇野さん自身は、「決断主義」という言葉のこの三つの語義をちゃんと明確に分けずに、その言葉を使ってしまっているため、読者に無駄な混乱を引き起こしている。いや、あえて混乱させているのかもしれないけど、それは自身を不利な立場に置くんじゃないかな・・。それじゃあ、せっかく文才があるのに、もったいない・・」
A「なるほどねえー。よく整理したもんだね、感服するよ」
B「いやまあ、これも君との議論を楽しむためさ」
この「やおいもどき」の会話はいつまで続くのか!?
(つきあってらんないから、これでおしまい。)
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