うのもえ 第5話 「宇野評論の落とし穴」

SHONEN JUMP

欧州で土産を買い忘れた私は、おそるおそる部室の戸を開けた。
視界にあの二人が入ってきた。


B「おおー欧州帰り。どうだった?」
「えーまあー古い町並みがきれいでしたねえー」
B「そうかそうかー」
A「どうなの? やっぱ日本のアニメとかマンガは普及してるの?」
「うーん、アニメのDVDはほとんど普及してないですねえ。でも、マンガはたいていの有名どころは英語に訳されていて、たとえば『デスノート』は全巻英語版が平積みになってました*1。あと、もっと人気のものになると、現地の言語に訳されているものも一部ありました。すごいですね、マンガ文化は。『ジャンプ』もそれぞれの言語版が売ってましたよ」
A「そうかそうかー」


・・この二人、返事が一緒じゃないかw


A「ところでさ、今またBと、宇野さんの評論について話してたんだよ」
「あ、最新号出たんですね」

S-Fマガジン 2007年 11月号 [雑誌]

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A「うん。でね、Bもちゃっかり読んだみたいなんだよ」
「へえー。Bさん、うのもえですね」
B「いや、まあ・・」
A「B、つねひらーですね」
B「なんだよ、つねひらーって」
A「うのつねひろ萌えの人」
B「分かりにくいな。別に萌えてねーよ」
A「ふうーん」
B「ま、そんなことはどうでもよくってさ、おれがさっきから言ってんのは、宇野さんの評論は、どうも一点、気になるところがあるってことだよ」
A「まあ、Cにも説明してやってよ」
B「そうだな。

宇野さんの今回の結論は、こうだ。
「00年代前期のクドカンドラマは、夜神月バトルロワイアル的暴力志向の決断主義)を予防することはできる。しかし、それを治療することはできない。そこで、我々はその治療の方法を探っている木皿泉のドラマに着目しよう」、と。
でもな、この結論は、「我々は夜神月になってはならない」(思考停止と暴力に陥ってはならない)ということが前提になっている。
では、この「我々は夜神月になってはならない」という主張については、その正当性が思考されているのか?
また、この主張が孕む「夜神月的人間への暴力」は、正当化されていいのか? それはなぜか? その問いは思考されているのか?
どうもおれは、この主張は、この主張そのものによって否定されてしまう気がするんだよね。

・・とまあ、そういうことをさっきからAに話しているわけよ」
「なるほどねえー。複雑ですね。いや、むしろシンプルなのか」
B「シンプルだよ。誰もが薄々感じる問いさ。宇野さんの評論に対してね」
A「そうかなあー。宇野さんはすでに、『誰もが、普遍的主張をするときには、決断主義者となってしまう』ということに自覚的だと思うけどなあ」
B「じゃあ、『我々は夜神月になってはならない』という普遍的主張は、なぜ許されているの? その正当性は何だろう?」
A「正当性なんか、無いんじゃないかな。ただ、宇野さんは感情的に、非合理的に、夜神月がお嫌いなんでしょう
B「じゃあ、正当でない暴力を、夜神月に向けているわけだね。自覚的に。それじゃ、夜神月と一緒なんじゃ? つまり、思考停止と暴力に陥っているんじゃないの?
A「うーん、わからんー・・」
B「まあ、ややこしい話になってきたから、まあいいんだけどさ。おれは飯食いに行くよ。腹減った」
A「あーじゃあおれもー」
B「C、お前どうする?」
「あー私はさっき食べたんで、いいですよー」
B「りょーかい。んじゃな。また欧州の土産話を聞かせてくれやー」
A「そうだよー」
「あーはいー」


いつもながら、この人たちは議論が好きだなあー。
さーて、らきすた最終回でも観るか。あーもう終わっちゃうのか、早いなあー。