どらめも 「『野ブタ』→『LIAR GAME』→『ライフ』」
- 作者: すえのぶけいこ
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2002/08/07
- メディア: コミック
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あーあ、しんど、これ・・
「はあ・・・」
B「・・・おい、どうした?」
「え、まあ・・・」
B「なんかあったの?」
「最近、ドラマ版『ライフ』(第1話〜第9話)を観たんですけどね」
B「ああ、あれ、ね」
「なんか、鬱になりますね、あれ」
B「そうね」
「なんつーか、どこかエグい感じがして。いじめっ子の愛海はどこまでも冷徹だし、救い手の羽鳥はどこまでもかっこいいし。ドラマ版『野ブタ』の場合は、いじめっ子の坂東や蒼井も、いじめられっ子の野ブタも、救い手の修二・彰も、みんな強い面・弱い面・冷たさ・温かさを持ち合わせていたから、どこか救いを感じたのだけれど、『ライフ』の登場人物たちは、冷たいヤツはどこまでも冷たく、温かいヤツはどこまでも温かい。それが、どこか非現実的な感じがするし、救いがないような気もするんですよね・・。まあ、まだ全話終わってないので、誤解しちゃってるのかもしれませんけど・・」
B「ふうーん、なるほどね。ということは、今放映中の『ライフ』は、2年前の『野ブタ』よりも、人物設定が非現実的であり、それゆえに、内容も浅い、ということになりそうかな」
「まあ、そうですかねえー」
B「どうなんだろうね。まあ、たしかにおれからみても、羽鳥がなぜあそこまで歩を救いたがるのか――あるいは、なぜあれほどに他人の痛みを放っておけないのか――、その理由がいまいち良く分からないね。その点については、『LIAR GAME』の救い手の秋山のほうが、主人公を救う動機がちゃんと描かれていて、現実味がある。『ライフ』でも、薗田のほうは動機がしっかり描かれているね」
「そうですね。で、同じように、『ライフ』のいじめっ子の愛海があそこまで冷徹である理由も、よくわからないんですよ。同じく冷徹な佐古については、DV被害者という彼の生い立ちが、一応その冷徹さを説明しています。では、愛海は? まあ、明日以降の放送で、そこらへんが描かれていくのかもしれないし、それによって、愛海の冷徹さが相対化されていくのかもしれないんですけどね。――ちょうど、『野ブタ』のいじめっ子蒼井が、『私の存在を覚えててほしい』と、いじめの動機を打ち明けたときのように・・・。そう、そうやって、『いじめをする真の動機』(いかなる目的のためにいじめという手段を使っているのか)が言語化されることで初めて、『いじめ』という行為そのものは、相対化されていくんですよね。それによって、いじめっ子の『いじめっ子性』もまた、相対化されていく。つまり、“その子にも『いじめっ子という性質』以外の性質がある”ということ(“いじめ以外の手段によってもその子は目的を達成できる”ということ)が、(その子を含む当事者たちによって)発見されていく。それが、『いじめ』という現象の解体につながっていくと思うんですよ」
B「うーん、まあそれは確かに正論かもしれないねえ。でもさ、『ライフ』ではすでに、愛海は、『なぜいじめるの? さみしいからじゃないの?』と訊かれて『楽しいからですよ』と答えている。これは、もしこの答えが本心だとすれば*1、『野ブタ』の否定だよね。『野ブタ』の蒼井は、さみしいからいじめていたわけだけれども、『ライフ』の愛海は、楽しいからいじめている。まあ、この言葉が愛海の本心かどうかは、ドラマが全話終わるまでは、分からないけどね。でも、もしこれが本心だとしたら、『ライフ』の問題は、『野ブタ』の解決方法を否定してしまっていて、その方法では解決できない。そういう意味で、『ライフ』は『野ブタ』を越えてしまっていることになる」
「そこがエグいんですよ。愛海の言うように、『いじめ』そのものが目的であるならば、これは救いようがないと思うんです。『野ブタ』の蒼井の場合は、『他者とつながりたい』という後期近代的=ポストモダン的欲求(鈴木謙介さんが言うような)が、いじめの目的だったから、いじめは解体可能だった。蒼井は最終話で『学校に行ったらまた小谷さん(野ブタ)をいじめちゃうから、学校に行かない』と言ってたんですよね。で、野ブタは『それでもいいから、学校に来て』と言う。ここにはもういじめは解体されているわけですよ。なぜ解体できたのか? それは、いじめそのものが目的ではなくて、『他者とつながること』が目的だったからですよ。ところが、『ライフ』の愛海は、『いじめそのものが目的です』と言う。もしこれが本心であれば、このいじめは解体不可能ですよ、原理的には」
B「まあ、原理的にはそうだろうけれども、現実にはどうなんだろう。明日放映の『ライフ』第10話では、予告編によれば、どうやら愛海は、クラスの全員から信用を失うことになるみたいだ。嘘つきだってことがばれちゃうんだろうね。とすると、これは『野ブタ』の修二がクラスの全員から信用を失った状況(第8話)と、同形だ。で、修二の場合は、そのときに野ブタ・彰との関係性――つまり『グレンラガン』のニアが持っていたような、既に築いてきた他者との関係性(時間の不可逆性)――に、救われたわけだ。じゃあ、愛海は? 愛海が持っている唯一の関係性は、みどりとの関係性だと思われる。じゃあ愛海は、そのみどりとの関係性に『救われて』、歩へのいじめを続行していくのだろうか。そうかもしれない。だとしたら、確かに、いじめの解体は難しいね。でも、もし、みどりさえもが愛海のことを嘘つきと思うようになったら、もはや愛海は、いじめを続行したくても、現実的に続行不可能になるんじゃないかな*2。だれも愛海の言葉を信じなくなったら、愛海はいじめをしたくてもできない。そういう『いじめの解体パターン』も、ありうるんじゃないかねえ」
「まあ、そうかもしれないですね。じゃあ、まとめると、
いじめの解体パターン
- いじめが、別の目的のための手段にすぎない場合: いじめ以外の手段によってその目的を達成させてあげることで、いじめは解体される。
- いじめそのものが目的である場合: いじめっ子の言葉を周りの誰もが信じなくなった場合に、いじめは不可能になり、解体される。
・・という感じでしょうか?」
B「そうだね」
「ところで、『言葉を信じるかどうか』という問題は、ドラマ版『LIAR GAME』とも通じる問題ですよね。あのドラマの場合は、主人公(直)は、他人の言葉をすぐに信じてしまう女の子なんですけど、『直が、フクナガに対して平等主義的な所得再分配を行った』という事実――フクナガにとっては過去に前主体的に築いた他者との関係性(時間の不可逆性)――を思い出すことで、フクナガはエゴイズムから脱して、ゲームを平等主義的な結果に導くことになるわけです。で、ラストシーンでは、残った唯一のエゴイストであるヨコヤは、『他人の言葉を信じることで初めて、自分は救われる』という経験をすることになります。前者のフクナガの経験は、『過去の他者との関係性』(時間の不可逆性)という点で、『野ブタ』の修二に通じるテーマですよね。他方、後者のヨコヤの経験は、『エゴイストが他人に信じてもらえるかどうか』(『野ブタ』の修二や、『ライフ』の愛海が陥る問題)ではなくて、『エゴイストが他人を信じられるかどうか』なので、これは新しいテーマですね」
B「そうだねえ。で、その新しいテーマが、今後の『ライフ』にも出てくるかもしれない。つまり、愛海の今後陥る問題として、ね。だとすれば、その問題がどのように描かれていくのか、が見どころになるだろうね」
「ですね」
B「で、どうかな? おれと話すことで、少しは『鬱』は軽くなったかな」
「あ、そういえば・・・なんか、そうみたいです。ありがとうございます」
B「いやいやw で、明日の『ライフ』も観るの?」
「ええ、たぶん。観ちゃうでしょうね」
B「欧州行きの準備はだいじょぶなのか?」
「あーまあ、なんとかなると思います・・」
B「気ーつけてな」
「はい」
あーそうだった。準備、準備・・・。空港バスを予約しないと・・。
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