初音ミク論(2) 「データベース消費から固有性消費へ」

初音ミク論のつづきです。
いただいたご意見のおかげで、視点が一段と深まりました。
「・・・」さんに感謝いたします。


・・・ 『「声優さんモノマネ機械」にしか聞こえません。
中国人が日本語で歌ってるみたいにも聞こえます。』

・・・ 『>「声紋」のような固有的な機能
それは音声合成で、コンピュータゲームでは昔からあった
ですよ。』

ukpara 『なるほどー。貴重なご意見をありがとうございます。
もしそうだとすれば、私たちはむしろこう問うべきでしょうね。
「なぜ、2007年になって合成音声に萌える人が急増したのか? 合成音声の技術は昔から徐々に漸進的に進歩してきた。だから「客観的には」、2007年に「革新的に」その技術が進歩したわけではない。そうではなく、むしろ「共同主観の中で」、その技術が「2007年に革新的に進歩した(閾値を超えた)」かのようにみなされたのだ。つまり、「人々の合成音声への感情移入の閾値超え」(=合成音声の「固有」化!)が、2007年に、社会的に構築されたのである。では、なぜ2007年なのか?」
このように問いをより客観的にすることで、私たちの初音ミク論は、一気に学問的重要性を増します。
なぜ2007年に、合成音声は、(かつてない規模の人々の共同主観において)「固有性」を獲得したのでしょうか。
これが、真の問題ですね。
私が思うに、この問題の答えは、すでに『涼宮ハルヒの憂鬱』テレビ版の最終回のキョンの台詞のなかに、垣間見られていたのではないでしょうか。つまり「ハルヒハルヒであってハルヒでしかない」というあの台詞です。あれは、「ハルヒの属性が重要なのではなく、ハルヒの固有性(固有名)が重要なのだ」ということでしょう。つまり、「属性萌え」に飽きてきた(?)オタクたちは、「固有性萌え」を欲望し始めていたのではないか。その欲望が、一つの合成音声を(あるいは単なる藤田咲の複製声紋を)「初音ミク」という固有性として、彼らの共同主観内で、認識した(社会的に構築した)のではないか。
以上のように考察を深めることで、私たちの初音ミク論は、より本質的な問題へと深化します。それは、
「なぜ、00年代後半になって、オタクたち(東浩紀のいうデータベース消費者たち)の間で、その消費形式と反するような『固有性への欲望』が生まれたのか?」
という問題です。
ここに、「データベース消費」(属性萌え)と「固有性消費」(固有性萌え)との弁証法が、現出します。』