うのもえ 第3話 「ぼくらの課題」

Aさんはどうやら宇野常寛萌えらしい。またSFマガジンの最新号を買って、「ゼロ年代の想像力」を読んでいた。好きだね。

S-Fマガジン 2007年 09月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2007年 09月号 [雑誌]

周知のとおり、部室にはクーラーはない。
汗を垂らしながら宇野さんの文章を必死に追っているAさんは、さながら、宮台真司を信仰するかつての若者のようだ。

で、いつもながらBさんがAさんの長い話につきあってあげているわけだ。
ほんと仲いいよね、この二人。きっとできているに違いない。

A「つまりね、『モダン』(大きな物語による統制)から『ポストモダン』(小さな物語の並立)へ。『ツリー』から『リゾーム』へ。『規律訓練型権力』(反省的自己)から『環境管理型権力』(再帰的自己)へ。『ソリッド・モダニティ』(前期近代)から『リキッド・モダニティ』(後期近代)へ。ってことだよ。先進諸国では、1970年代に『(金本位制≒)固定相場制』から『変動相場制』へ移行したことで、以後、『社会のポストモダン化』が進行したわけだ。あ、これはドゥルーズが言ったことね。この変化を文化現象・社会現象で見たとき、1945年からの『理想の時代』、1970年からの『虚構の時代』を経て、1995年から、超越性の不在な『諸現実の時代』(あるいは『動物の時代』『不可能性の時代』)に突入した。これは、大澤真幸東浩紀木原善彦が言ったことね。で宇野さんが言うのは、日本の漫画・アニメ・小説で見れば、そういう価値観・世界観の変化の影響は、過渡的作品としては1990年代に『ジョジョPart3以降』1989-、『エヴァ』1995-7、『カイジ』1996-9、成熟した作品としては2000年前後から『リヴァイアス』1999-2000、『バトロワ』1999、『リアル鬼ごっこ』2001、『龍騎』2003、『fate』2004、『野ブタ』2004、『ライフ』2002-、『ドラゴン桜』2003-7、『クロサギ』2003-、『デスノート』2003-6、『LIAR GAME』2005-、見られはじめた、と。『ヒエラルキーのある戦い(トーナメント)』『大人の都合に巻き込まれた戦い』から、『ヒエラルキーのない戦い(バトルロワイヤル)』『自ら選んだ戦い』へ」
B「ふーん。ま、そうなんだろうね」
A「でさ、そういう変動相場制の上部構造として出現したポストモダンリゾーム環境管理型権力・諸現実の時代の『バトルロワイヤル状況』(ホッブズ的な万人闘争、マルサスダーウィン的な生存競争、パワーゲーム)をどう生きるのか、というのが、ぼくらの課題なんだとさ」
B「へえーたいへんそうだね」
A「まあね」
B「がんばってね☆」
A「うん・・がんばる・・・」
B「前にも言ったけどさ」
A「うん・・」
B「普遍的な主張をした時点で、その主張者は生存競争のプレイヤー(決断主義者)になっちゃってるわけだよね」
A「うん。宇野さんもそう言ってるね」
B「だから、選択肢は、普遍主義者になるか脱普遍者になるか、のどっちかしかないよね」
A「うん」
B「で、おれは、脱普遍者なのよ。べつに他の誰がどう主張していたって知ったこっちゃない。どうでもいいんだよ。おれさえ楽しけりゃ。で、現におれは楽しいしね。君とこうやって話したりしていて、楽しい。だから、そうなると、もう生存競争については、議論することはなくなっちゃうんだよね。ごめんね」
A「うん・・」
B「でもまあ、議論のネタがなくなるのもつまんないから、脱普遍的なネタとして、生存競争について、普遍主義者として主義主張させてもらうよ。あくまで君との会話を楽しむためのネタとしてね」
A「うん、よろしくたのむよ」
B「前にも言ったけどさ、生存競争っていう現実認識が、そもそも間違っているね。定額以上が無料のweb2.0の時代においては、ね」
A「ん、なんで?」
B「なぜなら、定額以上では、無料で、コミュニケーションの場と資源を確保できるわけね。現代では。それは、マルサスダーウィンが生きていた時代とは、まったく状況が違うわけよ。昔は、生存資源が調達困難で、コミュニケーションを楽しむための資源も有限だった。でも現代では、生存資源はちょっと働けば最低限は手に入るし(下流社会ってやつね)、コミュニケーションのための資源も低額の定額以上は、無限に手に入る。だからさ、現代では、マルサスダーウィンが想定していたような生存競争は、存在しないわけよ。ちょっと職場の人間関係にがまんして働いておけば、あとは、ネット上で気の合う他者とコミュニケーションを確保することができる。それが現代の状況。つまり、物質的に豊かになった現代では、生存資源をめぐる競争はたいしたことない。加えて、精神的生活・コミュニケーションの局面においても、ネット上ではコミュニケーション資源が実質的に無料であるため、資源の競争が生じない。これが現代の現実だよ。宇野さんは、ダーウィンの古い時代と、現代とを、正しく区別できていないんだよなあー。君もね。現実認識が古すぎるんだよ。ルルーシュじゃないけど『古き者よ』って言いたくなるね(笑)」
A「ふんっ。いいさ古くて」
B「いいんでないの。古い誤った現実認識でもさ、それによって『生存競争なんだー!!』っていうドキドキハラハラ感を楽しめて、話のネタになれば、ね。ポストモダン社会(後期近代)において重要なのは、『他者と繋がりうることの証左』『コミュニケーション可能性の確保』『盛り上がれるネタがあること』だからね。鈴木謙介カーニヴァル化する社会』の138、156ページあたりを見てくれ」

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

A「ふん。勝手に盛り上がりやがって」
B「いいじゃん、いっしょに盛り上がろうぜ。でさ、ほんとうの問題は、ネット上のコミュニケーション(そこではパワーゲームは必然ではないから、場の設定者による環境管理と参加者たちの意思とによって、パワーゲームは回避可能)が、どこまで、社会全体の共同性の維持に寄与できるか、という問題だよ。たとえどんなにネット上でタコツボの中での限定的な公共性が保たれても(それ自体はいいことだけどね)、リアル社会での公共性が保たれないと、ネット環境(インフラ)そのものが維持できなくなってしまう。だから、問題は、リアル社会での公共性
A「まあ、そうだね」
B「だから、思うにさ。『繋がりうること』の証左・手段(ネタ)として、生存競争とか決断主義とかについて議論するのも、いいけどさ、ほんとはもっと別のところに、ほんとうの問題があるんじゃないのか。つまり、リアル社会での公共性という問題だよ。『生き残らなくちゃ』とか『幼稚な決断主義を回避しなくちゃ』とかってのは、実は誤った現実認識から来る虚妄的問題であって、ほんとうの問題は、『リアル社会の公共性をこのIT時代にどう確保するか』ってことなんだよ。で、そこんとこを、IT技術の現状(ブログとかSNSとかセカンドライフとか)をしっかりと踏まえて、考え始めているのが、神成淳司・宮台真司の『計算不可能性を設計する』だね。とくに227ページ以降、とりわけ262ページからを読んでほしい。
計算不可能性を設計する―ITアーキテクトの未来への挑戦 (That’s Japan)

計算不可能性を設計する―ITアーキテクトの未来への挑戦 (That’s Japan)

でも、まあそこではある程度の事例は神成さんによって報告されているけど、理論的な示唆は不十分。で、そういった事例を理論的に一般化するためのヒントを提示してくれているのが、鈴木謙介の『ウェブ社会の思想』の254-6ページだ」
ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス)

ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス)

A「どっちもとっくに読んだよ、悪いね」
B「おお、なら話が早い」
A「どうも」
B「鈴木さんは、そこで、『時間の不可逆性』が公共性の契機となりうる、と論じているよね。これって、宇野さんが前回論じていた『重い現実』と同じなんだ」
A「だね」
B「で、鈴木さんはその『積み重ねてきた時間という<重い現実>に根ざした公共性として、国民国家を――その危険性を自覚しつつもあえて――再構築してみようではないか』と、論じているように見える。『〈反転〉するグローバリゼーション』の246-9ページでね」
“反転”するグローバリゼーション

“反転”するグローバリゼーション

A「国民国家ねえ・・。どうなんだろうね」
B「ここらへんについて、議論して盛り上がろうよ。生存競争とか決断主義といったような、誤った現実認識にもとづく不毛なネタで盛り上がるよりは、まだ現実味がありそうで、盛り上がりやすいんじゃないかな。ネタとしてね
A「そうかなあ。なんか抽象的過ぎて、実感わかないんだよな。だから、おれにとっては盛り上がりにくい」
B「そうかー残念だなあー。じゃあやっぱ決断主義とかの宇野萌えでいきますかw」
A「だなw」

もまいら結局、うのもえ*1か!




*1:宇野常寛さんの孤高なるトリックスター的振舞いに、思わず萌えてしまうこと。