うのもえ 第2話 「重い現実」

ふたたび、部室にて。
Aさんは、宇野常寛さんの「ゼロ年代の想像力(連載第2回)」『SFマガジン』(2007年8月号)を読んだようだ。

S-Fマガジン 2007年 08月号 [雑誌]

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以下は、AさんとBさんの会話のだいたいの再現。

A「『重い現実』ねえー。うまいこと言うな、宇野さんって人は。おれが日々なんとなーく感じていて、でもうまく言葉にできなかったことを、ぴったりの言葉で言い当ててくれたよ」
B「へえー、宇野さん、喜ぶだろうよ」
A「宇野さんによればさ、95年思想は、大きな物語が崩れたポストモダン的現実のうち、交換可能な『軽い現実』(社会的に構築された現実)しか見えていなかった。しかしその背後で、交換不可能な『重い現実』(生物的な現実)――つまり『身体性』(気持ちいい、気持ち悪い)とか『時間の不可逆性』(失った恋は戻らない、時間は戻らない)とか――もまた、確実に存在していた。『軽い現実』ばかり見ていたのは、実は、『重い現実』からの無自覚な逃避だったのである! それに対して、ゼロ年代の文芸サブカルチャーは、『重い現実』――つまり、生物的な『バトルロワイヤル』(万人の万人に対する闘争)――が、ポストモダン化の必然的帰結としてすでに到来していることを、直視し、所与の前提とみなす。その上で、バトルロワイヤルを、自ら進んでプレーする(覇権争いをする)。それが、ゼロ年代の想像力であり、『決断主義』すなわち『たとえ無根拠でも自分の信念を貫くこと』なのである。そして、来たるべき10年代は、この決断主義を乗り越えねばならないド━(゚Д゚)━ ン!」
B「鼻息荒いね。気持ち悪いからもっとそっちに行ってよ」
A「むはっ、ごめんごめん…」
B「でさー、その『重い現実』ってーのは、つまり、東浩紀さんが言ってた『環境管理型権力の対象としての動物性』『人間が動物化したとき、連帯の唯一の基盤となりうる、生物的制約(耐え難い苦痛など)』のことだよね。東さんは、『そういった生物的制約を踏まえたうえで、むしろそれを基盤として大いに利用して、社会を設計すべきだ』って、ローティ的に言っている。まあ詳しくは、北田暁大さんとの対談『東京から考える』の263ページ以降を見てくれ。

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

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で、ということは、宇野さんと東さんは、生物的制約(重い現実)を直視せよ、という点では一致しているようだね」
A「うん、そうだね」
B「まあ、その主張は分かるよ。生物的制約とか、時間の不可逆性とかを無視して、『なんでも社会的に構築されている。だから、何でも脱構築可能だし、構築可能だ』って考えてしまえば、結局はその『なんでもあり』やアイデンティティーの不確定さに耐え切れずに、他者に溢れる世界からの『ひきこもり』に陥ったり、そういう不確定な世界を自分に都合よく単純化する『セカイ系』に陥ったりして、他者を見失う恐れがあると思う」
A「そうそう、宇野さんはそう主張するわけよ」
B「でもさ、どうなのかな。『だから今はバトルロワイアル的状況なのだ』っていってしまうと、それもまた、『バトルロワイヤル状況を望まずに連帯している人たち』の存在を無視するような、『世界の単純化』じゃないかな。つまり、自分に都合よく世界を解釈していて、世界の不確定さからの逃避にすぎないんじゃないかい?」
A「うーん、宇野さんに言わせれば、『世界は不確定である。だからバトルロワイヤル的状況というように単純化するな』って主張もまた、自分の主張の覇権を求めた覇権争いのプレー(決断主義)の一つにすぎない、となるだろうね」
B「なるほどね。普遍的な主張をすれば、それはすべて、決断主義のプレーになるわけか。うまいこと言ったもんだね、宇野さんは」
A「だね」
B「じゃあさ、『べつに普遍性なんてどうでもいいし。おれは覇権なんてどうでもいい。覇権なんぞ勝ち取らずとも、おれが内輪の中だけで気持ちよくコミュニケーションできていれば、それでいい』っていうような、おれみたいな主張はどうなのかな?」
A「その君の主張は、動物的に『気持ちよさ』を求めている点では、生物的制約(重い現実)を直視する東・宇野とは、一致するね。でも君の主張は、東・宇野とは違って、『生物的制約を踏まえて社会設計せよ!』とか『決断主義を乗り越えよ!』とかいったような、普遍的な主張はしない」
B「そうそう。他人はどうでもいいんだよ。リアル世界で他人に負けたって構わない。ネットの片隅で、内輪的に気持ちいいコミュニケーションさえ、確保できればね。で、そのネット空間で、こういう内輪主義者(脱普遍者)たちが集まれば、普遍的主張なんかなくても、自ずと、みんな棲み分けをしていくから、バトルロワイヤル状況にはならないんじゃないかな――なんか、『ダーウィンの生存競争論』を否定した『今西錦司の棲み分け論』みたいだけど、厳密にはちょっと違う――。重要なのは、web2.0以降のネット空間では、資源が(定額以上は)無料だから、マルサスやダーウィンの言う生存競争(資源の奪い合い)は生じないってことだよ」
A「なるほど。分かる気はするよ。ただ、『内輪主義』って用語はやめて、『脱普遍』って言ったほうがいいね。『主義』ってつけると、普遍的主張になってしまうから」
B「じゃあ今後はそう言うよ」
A「ところで今気づいたんだけどさ。宇野さんは、『10年代の想像力は、決断主義を乗り越えるべきだ』って言ってるけど、それって自己矛盾だよね。なぜなら、『べきだ』っていう普遍的主張をした時点で、すでにその主張は決断主義の一つとなっているから
B「はは、そのとおりだな」
A「宇野さん、今後どう論じていくんだろうね。楽しみだな」
B「よかったね。内輪的に盛り上がるネタができて
A「うるさい、内輪主義者め」
B「いえ、脱普遍者です。宇野さんは、事実確認的には(=言葉上は)『脱決断主義者』。でも、行為遂行的には(=行動上は)『決断主義者』であるか、もしそうでなければ、『脱普遍者』だね。彼が前者の『決断主義者』である場合は、彼は明らかに言動不一致に陥っている。それを回避できているとするならば、彼は後者の『脱普遍者』だね。よって、彼が言動一致の「誠実」な論者であると仮定するならば、彼は、おれと同じ『脱普遍者』なんだ。うれしいよ」
A「よかったね、友達が増えて」
B「ああ、ありがとう」


なんか、楽しそうだな。うらやましい。