うのもえ 第1話 「決断主義」

昨日、部室にて。
Aさんは、ちょうど宇野常寛さんの「ゼロ年代の想像力連載第1回)」『SFマガジン』(2007年7月号)を読み終わったところのようだった。

S-Fマガジン 2007年 07月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2007年 07月号 [雑誌]

以下は、AさんとBさんの会話のだいたいの再現。

A「なあ、B。ゼロ年代ってさ、やっぱ決断主義の時代なのかな? おれ、なんか、この文章に説得されたんだけどさ」
B「へえー、決断主義ってなに?」
A「宇野常寛という人がアニメ・ドラマなどのサブカルチャーを分析することで見いだした、ゼロ年代に特徴的な精神性。具体的には、社会の既存ルールが機能不全に陥っていることを当然の前提として、社会の新たなルールを自分の力で構築していこうとする精神性、だそうだ」
B「ふーん、なんか大変そうだね」
A「で、どう思う? 今の、少なくとも日本の、最先端の時代精神って、決断主義なのかな?」
B「そのまえにさ、何で『新しいルールを構築する』なんてめんどくさいことしようとするのかな? 新しいルールなんて構築せずに、学校とか職場とかでは適当に周りに合わせておいて、あとは家に帰ってからブログとかmixiとかオンラインゲームとかセカンドライフとかで気の合う人とだけコミュニケーションしとけばいいじゃん。『今日学校・職場でこんなこと言われてむかついたー』『へーそれはむかつくね』みたいなこと言い合ってストレス解消してさ。あとは適当に趣味の話で盛り上がっとけば、それで十分楽しいじゃん。わざわざリアル世界で『ルール構築』なんてめんどくさいことしなくてもさ」
A「うん、そうだね・・」
B「で、ブログ人口とかmixi人口とかネトゲ人口とかの多さを考えると、今の最先端の時代精神って、決断主義というよりもむしろ逆に、そういった精神性――そうだな、適当な名前が思いつかないけどとりあえず名づけておけば――『内輪主義』なんじゃないかな? ある調査によれば、2006年冬での世界のブログでは、日本語のシェアが英語のシェアを越えて一位になったんだってね*1。これってさ、そういう日本最先端の『内輪主義』が、実は世界的に稀な、もしかして最先端の文化かもしれない、ってことを意味するよね。で、重要なことは、ネット環境が可能にした「リアル/オンライン」っていうコミュニケーションの二層化が、『内輪主義』を強化したのであって、この現象はネット環境がいまだ一般化していなかった90年代にはありえなかった現象だ、ということだよね。つまり、ネット環境によって強化されたこの『内輪主義』は、たぶんにゼロ年代以降の時代に固有のものである、と。そしてまた、この文化が日本に特に顕著なものである、というのも重要な気がする」
A「そうねえー」
B「あとは、実はこれが一番重要だと思うんだけどさ、決断主義』ってあくまで若者中心のサブカルチャーに見いだされた現象にすぎないわけでしょ。でも、ブログとかmixiとかってのは、若者以外の人たち、たとえば若者のサブカルに興味のない中年会社員とか主婦とかもどっぷり浸かっているわけじゃん。しかもそれは、90年代には、ここまでの規模としては、存在していなかった文化だよね。だとすれば、ブログとかに見られる『内輪主義』こそが、ゼロ年代時代精神だといえる。『決断主義』なんてめんどくさいことしてるのは、起業したり政治したりプロ創作したりしているごく一部の、主に上層階級の人たちだけだと思うよ。たいがいのおれら一般人にとっては、『決断主義』的に生きていったらストレスが多くて生きて行けない。決断主義』的に生きようとしたら、結局はストレス性の病気になって、生き残れないだろうね。たいがいの人にとってはね。だからこそ、みんな、ルール構築なんかせずに、ブログとかmixiとかで学校や職場の愚痴を言い合ったり、趣味の話で盛り上がったりして、日常をやりすごしてるんだよ」
A「たしかにねえー」
B「あ、そうそう、で質問だったんだけど、なんで『決断主義』なんて生き方しようとするのかな?」
A「どうやら、ゼロ年代では、社会がバトルロワイヤル的状況になっているから、決断主義で戦っていかないと、生き残れない、ってのが理由らしいね」
B「それは完全に現実を見誤っているね。今の時代では、決断主義的に生きた時点で、『生き残れない道』へまっしぐらだよ。おれみたいなたいがいの一般の人たちにとってはね。だからこそみんなブログとかで内輪だけで盛り上がってるってのに・・・」
A「内輪ねえ・・。まあ、内輪主義ってのは、昔からあるコミュニケーション形態だろうけど、ネットが2000年前後に普及してゼロ年代で内輪主義が特に実践しやすくなったのは、たしかだろうね」
B「だとおもうよー。『決断主義』を実践したら、それこそ生き残れないと思うなあー」
A「うーん、まあ、おれらもこうやって内輪的に時代論で盛り上がることで、日常を楽しめているわけだしね。そういう意味では、決断主義なのか!?』という言説は、おれらにいいネタを提供してくれているわけだね」
B「ああ、だから、決断主義』ってのは、いいネタになるから、生き残りのための一つのツールになるわけか!! やっと分かったよ」
A「いや、まあ、そういうネタ的発想でこの宇野って人は主張しているわけではないと思うんだけどね」
B「いや、それは分からんよ。なんせ、どんな言説もネタになる時代だからね」
A「いや、本人は至って真面目に主張してるんだとおもう」
B「そうなのかー。だとしたら、その人はもっと視野を広げて、もっと広い社会現象に目を向けたほうがいいと思うよ」
A「うーん、でもさ、この人は、サブカルについての論者みたいだから」
B「え! ブログとかmixiも、立派なサブカルじゃん」
A「あーじゃあ、アニメとかドラマとかの文芸サブカルについての論者ってことかな」
B「あーなるほどね。それなら分かる。ってことは、文芸サブカル論が、いかに視野が狭くなりかねないか、ということを彼は立証してくれた、ということかな?」
A「うーん、まあ、Bの主張が正しければ、ね」
B「正しいと思うけどなあー。少なくとも、オタク的なアニメや一部のドラマよりも、ブログやmixiのほうが享受人口が多いと思うよ。たとえ少ないとしても、アニメ・ドラマに劣らずコミットメントが深いから、決してブログ文化を無視はできないでしょう。であれば、内輪主義、まあこの命名はちょっとイマイチな気はするけど、内輪主義という精神性も無視できないとおもうねー。おれのまわりで決断主義で生きているやつなんて見たことないし。決断主義にあこがれているやつも、見たことない。たいがいのやつは、テキトーに周りに合わせて、あとは内輪で盛り上がる、内輪主義ばっかだよ」
A「まあ、おれの周りもそうかな」
B「だろー?」
A「ってことは、決断主義は、ごく一部の人たちにおいてだけ、信奉されている精神性であって、たいがいの人は内輪主義で楽しんでいる、と」
B「そういうことだね。逆に、決断主義なんて生き方を選んだら、生き残れないよ」
A「そうかなあー。スリリングでそれまた楽しい人生が待っている気もするんだけどなあー」
B「まあ生き残れない方向へと進んでいっても構わないなら、決断主義で生きればいいさ。だれも否定しない。でも、しんどいと思うぜーそれ」
A「そうかもねー」
B「おれは、ネタとして決断主義を語るのは『内輪主義的に』楽しめるからいいけど(笑)、ベタに決断主義を生きるのはあほだと思うよ」
A「あほって言いすぎだよ」
B「まあ、おれにとっては、ね。別に他人が決断主義をベタに生きてイタくなってくのはどうでもいいけどさ」
A「ひでーな。おれは、基本は内輪主義だけど、やっぱ人生、ドラマがないとつまらないから、人生をドラマチックにするスパイスとして、決断主義を時折採用したいね。でも、それはあくまでスパイスのためであって、『生き残るため!』ではない(笑)。生き残るためにモロに決断主義を採用したら、それこそしんどすぎて、生きていけないし、ストレス過多で病気になって、結局は生き残れないだろうからね
B「そうそう、そういうことだよ。その宇野さんって人も、ほんとはこういうことくらい分かってるんじゃないかな。で、内輪主義的に生きるためのネタとして、あえて、『ゼロ年代決断主義なのだ!そして我々は2010年代へ向けてそれを克服せねばならないド━(゚Д゚)━ ン!』って叫んでるんじゃないの?
A「うーん、やっぱそうなのかもしれない。宇野さん本人は、実際はそこまで自覚できてないかもしれないけど、無意識的な願望としては、『人生のスパイスとしての内輪主義的なネタとして決断主義という仮想敵を言説空間に登場させたい』と思っているのかもしれないね
B「きっとそうだよ」
A「まあ、そうだろうね。無意識的にね」

・・以上が会話のだいたいの内容。
「内輪主義」って命名はないだろ、って思いながら聞いた。
ごく一部の人たちにしか楽しめない、実に内輪的な会話だな、と思った。
ま、どうでもいいけど
それより、はやく部室にクーラーつけてくれ*2





*1:http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0704/06/news057.html

*2:こうして、環境管理型権力だけが、ネタならざるものとして残るのであった。おしまい。