アニメモ 「『天元突破グレンラガン』第22話とポスト決断主義」


深夜。
部室はすずしい。


その片隅で、Bさんは何か物思いにふけっているようだった。


「Bさん、どうしたんですか?」
B「ああ、ちょっとね。どうなのかなと思っていて。いや、今日の天元突破グレンラガンだよ」
「はあ」
B「あれを、『なんでも合体かよw』とか『ニアはツンデレw』とかで一蹴するのは、たやすい。でもさ、もうちょっとぼくらのためになるヒントを、あの22話から得られないものかな、と思ってさ」
「ヒント、ですか」
B「うん。比較的自由度の高い『想像力』だからこそ含意できる、ヒント。ぼくらがこれからの世界をつくっていくために、有益なヒント、をね、得られないかな、とおもうんだ」
「うーん、何か思い当たるところがあったんですか? 22話に」
B「うん、あったような、なかったような。いまそれを考えてるんだ。ちょっとまだ自分でもよく見いだせてないんだけど、ちょっと聞いてくれるかな」
「はい。今夜はAさんいないですもんね。そいえばAさんどうしたんでしょうね」
B「まだ実家に帰ってるんじゃないかな。ま、あいつのことはいいんだよ」


お、これはAさんとの間になにかあったのか!?wktk


B「だけども、問題は、今日の22話。
グレンラガン、おれから見るとさ、

  • 第1部は、熱血漢の超越性たるアニキが、主人公シモンを導いた時代。70年代まで宇宙戦艦ヤマトまで)の時代の再演かな。
  • 第2部は、超越性たるアニキを失って、シモンが「超越性なき戦い」と「ひきこもり」との間で揺れる時代。80年代の、超越性(リュウ)を失ったホワイトベース乗組員たちの「超越性なき戦い」。それから、90年代の、同じく超越性の失効した(父が亡き妻の面影にすがっている)シンジの「ひきこもり」。それらを再演していたように思う。
  • 第3部は、そういった80〜90年代的なシモンの生き方が、ロシウの決断主義*1によって否定される。
  • ロシウの決断主義は、もともとは80年代末のシャアの決断主義(地球にすがる者たちの粛清)が元ネタだと思うんだけど、あくまで80〜90年代においては、そういう決断主義は「脇役の主義」であり、主人公(アムロ)はその決断主義を食い止める役柄だったね。でも00年代になると、その決断主義が、脇役ではなく主役に躍り出る。デスノート夜神月も、コードギアスルルーシュも、決断主義的に、人類の一部を粛清するわけだ。で、それを食い止めようとするスザクとかは、もはや脇役になってしまっていて、2ちゃんやニコニコ動画では「ウザク」と呼ばれてしまうほどに、ウザがられてしまうことになる。時代の変化だね。
  • さて、ここまでは、これまでのアニメ史の再演であり、それはまた、社会史の再演でもあった。で、重要なのは、ここからなんだよ。
  • ロシウは、シャア(や月、ルルーシュ)のように、人類の一部を粛清する(正確にはロシウの場合は「見捨てる」だけど・・)ことによって、人類社会の再興を図る。で、このままロシウのターンがつづけば、これまでの00年代の想像力(決断主義)と大差なく終わっていたわけだ。
  • でもね、今日の22話で、これまでとは明らかに違う想像力が、これまでの想像力を乗り越えるかたちで、登場したわけだ。今回、ロシウの行動がシャア(決断主義)の(穏やかな)再演であることが、明白に描かれたわけだけど、だからこそ、それに対して、シモンの行動は、シャア=ロシウ(決断主義)との鮮やかな対比のもとで、新しい想像力として、ぼくらの眼に映ったにちがいないんだ。
  • では、その新しい想像力とは、どんな想像力だったのか? そこには、ぼくらにとってのどんなヒントが含意されているのか?
  • この想像力の核心は、合体ではなく(なぜなら合体は第1部、第2部の古い想像力においても使われていた解決策だったから)ニアとの対話にあるんだろう。とくに、「ニアがいまだに、シモンからもらった婚約指輪をはめている」ということ、つまり、「ニアがいまだにシモンを求めている」ということに
  • なぜニアは、いまなおシモンを求めているのか。これが鍵なんだろうね。


ニアは、二つの自分をもっている。これは、現代的な設定だよね。
今日のぼくらは、実名の自分を生きながらも、固定ハンドルネームの自分とか、捨てHNの自分、名無しさんの自分、など、いろんな自分を同時に生きている。そしてそれぞれの自分が、それぞれのデータベースをもち、独立(分立)している。すべての自分を統一する超越的な自分は、ない。どれもが「ほんとうの自分」なのだ。だからこそ、コテハンの自分が実名の自分よりも本当の自分であると思えるときもあれば、名無しさんの自分のほうが本当の自分だと思えるときもある。つまり、それぞれが独立している。これは鈴木謙介さんが、『カーニヴァル化する社会』の126-132ページで、「後期近代の自己像」として指摘していたことだよね。


で、ニアの二つの自分とは、「父(螺旋王)に捨てられてシモンに出会い、シモンと婚約した女性」という自分(自分1)と、「DNAの中に反螺旋因子をもつ反螺旋族(アンチ・スパイラル)の使者」という自分(自分2)。自分1は、他者(シモンたち)との関わりの記憶(データベース)をもち、その記憶に規定された自分。つまり、「過去」という不可逆性(宇野常寛さんのいう「重い現実」)をもつ自分だ。他方、自分2は、たんなるプログラムの発動体であるから、他者との関わりもなく、過去もない。
いまのところ、22話時点では、自分2のほうが、自分1よりも強力に機能している。でも、自分1の機能は、消えたわけではない。ていうか、消せないだろう。脳を完全移植でもしないかぎり、過去(重い現実)は、消せない。これこそが、ニアがいまなお指輪をはめている理由にちがいない。
そして、22話の最後あたりでは、この自分1が、自分2を一瞬押し下げて、「迎えに来てくれるのですか?」と声を上げる。ここに、ぼくたちは、「他者との関わりによって否応なく構築される過去」(時間の不可逆性=重い現実)の可能性を目撃する。
とすれば、今後のグレンラガン第4部)は、ニアの自分1が自分2に打ち克っていく方向で、進んでいくのだろうね。
それによって、人類(+獣人w)の救済(螺旋族と反螺旋族の共生)がなされるはずだ。
(っていうか、おれ、獣人萌えなんだけどw とくに人間と獣人との共同生活になんともいえない幸福感を感じるw)


となると、グレンラガンの物語から得られるヒントは、つぎのように言語化できるだろう。
「他者との関わりによって否応なく*2構築される過去」(時間の不可逆性=重い現実)こそが、00年代の「超越性の衰退」や「ポストモダン化とIT化による公共性の危機」への、突破口となるだろう、と。


でもねー、そう言語化してしまうと、この前確認した鈴木謙介さんの結論と、たいして変わらないんだよねえ・・。
でも重要なのは、今回の想像力は、鈴木さんの抽象的な結論に、ニアの「自分2に対する、自分1の超越」という具体的な物語を、与えている、ということだよね。
その具体性にこそ、ぼくらは注目していかなくてはならないんじゃないだろうか。

・・とまあ、こういうことを考えたりしてるんだよ」
「ふうーん」
B「分かる?」
「うーん、どうもまだ抽象的すぎて、実感わきません・・」
B「そうかー、、」


いつになくBさんは真剣だった気がする。
そんなにこのグレンラガンとやらは深いアニメなんだろうか。
私にはよくわからない・・。

とりあえず、はやく帰って寝よう。


カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

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ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス)

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S-Fマガジン 2007年 08月号 [雑誌]

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政治神学

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脱構築とプラグマティズム―来たるべき民主主義 (叢書ウニベルシタス)

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存在の彼方ヘ (講談社学術文庫)

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*1:ここでの「決断主義」は、宇野常寛さんの語義ではなく、あくまでシュミットの語義であることに注意。宇野さんの論及する決断主義は、「超越性なき時代には、各個人がそれぞれ、無根拠に、他者に影響を与える決断をするしかない」という意味(諸個人の政治性の自覚化)であり、1940年代のサルトルアンガージュマン思想と同じ(ただしそれは容易に諸個人の暴力の正当化につながる危険性があり、宇野さんはその危険性を批判しているわけだ)。それに対して、1920年代にシュミットが主張した決断主義は、「直接民主制以外の国家における主権者(統治者)は、無根拠に暴力的決断をするべきだ」という意味(統治者の暴力の正当化→ヒトラー独裁の正当化)。で、シャアも月もルルーシュもロシウも、みな、(草の根で人類をアンガジェする諸個人ではなく)「新しい社会の支配者」になろうとしているため、シュミットの決断主義に近い。なので、ここでの「決断主義」は、シャアに始まる系譜を指し示しているから、シュミットの決断主義のことを意味している。宇野さんの論及する決断主義サルトル、またその暴力化物)とは、ちょっと違う。詳細はhttp://d.hatena.ne.jp/ukpara/20070829を参照

*2:この「否応なく」つまり「前主体的に」「主体性以前に」というのがミソ。この「否応なさ」を、デリダは「約束」と呼び、またレヴィナスは「善」と呼び、「主体的決断」(自己決定)よりも重視したのではなかったか?