アニメモ 「『ぼのぼの』のこと」

ぼのぼの [DVD]

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だいぶ涼しくなってきたのだけれど、まだ蒸すなあー。
もっと薄着にしてくればよかった。


A「あ、B」
B「おう」
「こんばんはー」
B「おう。お前、それ、暑くないか?」
「ええ、まあ、暑いですね。失敗しました」
B「ま、脱げとは言わんけどさ」
「はあ・・」
B「おお、そうだ――なあ、A。『ぼのぼの』って観たことあるか?」
A「ああ、テレビのほう?」
B「いや、映画のほう。初のアニメ化のな。1993年の」
A「ああ、だいぶ昔に観たよ。で、それがどうした?」
B「ああ、まあ、声優陣はテレビ版のほうが好きなんだけどな。今気になってるのはそこじゃなくって、物語テーマのほうだ」
A「うん」
B「あれってさ、一番重要なシーンは、事実確認的(コンスタティブ)には、『ヒグマの大将とスナドリネコさんとの大人な対話』のシーンで、行為遂行的(パフォーマティブには、『コヒグマくんが巨大な牛に踏み潰されそうになったときに、ヒグマの大将は“息子のコヒグマくんを救うために命を懸ける”ということをしなかった』というシーンだよな」
A「まあ、最も端的にまとめれば、そうなるだろうね」
B「となると、この映画のテーマは、対話シーンで語られ、命を懸けないシーンで実践されている」
A「まあそうだね。で、問題はそのテーマが何なのか、ということなんだろ?」
B「そうそう。そのテーマは明らかに、『誰かが〈命を懸ける〉という行為をしてしまうと、みんなが命を懸けるようになってしまう。そうなると、生活共同体がバトルロワイヤル状況――つまり万人の万人に対する戦い、つまり生存競争――になってしまって、平和じゃなくなる。だから、〈命を懸ける〉という行為をしてはならない』というヒグマの大将の主張だ*1。それが、大人の考え方であり、大将のライバルであるスナドリネコさんも、それに共感しているようだ。
実は、もともとスナドリネコさんは、そういうバトルロワイヤル状況の世界から命からがら逃れてきて、大将の守っていたこの森に流れ着いたのだった。つまり、スナドリネコさんがかつて住んでいたバトルロワイヤル的世界は、日本で対応づければ、『2001年小泉内閣成立以降の新自由主義社会』であり、ヒグマの大将が守っていたこの平和な森は、『1982年中曽根内閣成立以前の集団主義社会』だ。ここで注意してほしいんだけど、この表を見てくれ。

前期近代
金本位制・固定相場制:19世紀〜1970年代)
後期近代
(変動相場制:1970年代〜)
思想文化 モダン(大きな物語の単一支配、ツリー構造) ポストモダン(小さな物語の乱立、リゾーム構造)
社会変化パターン1 古典的ナショナリズム大きな物語国民国家 個人主義新自由主義アングロサクソン諸国)
社会変化パターン2 古典的ナショナリズム大きな物語国民国家 個人主義保守主義(大陸ヨーロッパ諸国)
社会変化パターン3 古典的ナショナリズム大きな物語国民国家 個人主義社会民主主義(北欧諸国)
社会変化の共通点 大きな物語にもとづく集団主義 大きな物語なき個人主義


つまり、日本は、『社会変化パターン1』のほうで変化してきたわけだ。
で、その『集団主義から新自由主義へ』という変化の最初の動きが『中曽根内閣成立』(1982年)であり、その変化の完了を告げたのが『小泉内閣成立』(2001年)だったわけだ」
A「まあ、仮にその政治的な歴史は正しいとして、じゃあ、それが『ぼのぼの』の映画版とどうつながるわけ?」
B「こういうことさ。この新自由主義化という社会変化は、日本では、1982年に始まり、2001年に完了した。この1982年と2001年のちょうど中間は、(1982+2001)÷2≒1992年で、ちょうどそのころ(1993年)に、『ぼのぼの』映画版が公開されたわけだ。つまり、ヒグマの大将のバトルロワイヤル化に対する危惧は、この日本社会のバトルロワイヤル化にちょうど対応していたわけだね。時期的にも、内容的にも。それも1995年よりも前だから、かなり早い時期に、しかも純粋なかたちで、その危惧を表現していたわけだ、ヒグマの大将は」
A「うん、まあ、そうやって政治史的に説明しちゃうと、なんかとてもうすっぺらい内容の映画のように聞こえちゃうから、あんまりそういう説明は好きじゃないけどね。でも、まあ、そういう時代背景があって、なされた主張ではあるんだろう。ヒグマの大将の主張はさ」
B「うん、そういう感じだ。もちろん重要なのは、そういう事実確認的な説明ではなくて、ヒグマの大将が、まさに視聴者が息をのんでいる中で実践した、『コヒグマくんを救わない(=命を懸けない)』という行為だ。この行為が、『バトルロワイヤル状況を引き起こさないための決断』というのがいかなるものであり、いかなるものであるべきなのかを、森の大人たちやぼくら視聴者たちに、行為遂行的に提示し、約束してくれたんだ。で、ぼくは今日ひさびさにこの映画を観直して、『ああ、これは大事なシーンだな。忘れたくないし、ぼくらは忘れちゃいけないな』と思ったから、こうやって君に話すことで、ぼくらの心の中にこのシーンの体験を刻もうとしているんだ」
A「そうか・・」
B「まあ、それだけなんだけどね。話してみると、意外とあっさりしたことになっちゃうんだけど、うーん、なんかな、もっと深いものを感じたんだよ。昔はそれは言葉にならなかったけどね。でも、今はこうやってなんとか言葉にできる。言葉にしてみると、どうも薄っぺらくなっちゃうんだけどさ・・」
A「うん、分かるよ・・」




うーん、ということは、結局は、日本では、ヒグマの大将の時代は終わって、スナドリネコさんがかつていたバトルロワイアル状況の時代になってしまっている、ということか。つまり、『ぼのぼの』(映画版)のテーマは、時代遅れになってしまったということか!? ほんとうにそうなのか?
たとえば、今の時代の精神であれば、ヒグマの大将は、もし息子を救いたいのであれば、共同体の平和を犠牲にしてでも、息子を守る(ために命を懸けて巨大な牛と戦う)べきだったのか?
まあ、そうなるのだろう。『コードギアス』のルルーシュが、まさにそうではないか。妹ナナリーを幸せにするために、世界の平和を犠牲にしてでも、巨大なブリタニア帝国と戦うわけだからw

でも、ほんとうに、ヒグマの大将のあの態度は、もう忘れ去れてもいいのか?
いや、そうじゃないだろう。
あの大将の決断的態度――バトルロワイヤル状況を社会にもたらさないためのサルトル的決断とその実践――には、何かしら学ぶべきものがあるように思える。それが何なのかは、よく分からないけど・・。
今度Bさんにでも訊いてみようっと。



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*1:ちなみに、この主張以外にも、『なぜ楽しいことは終わってしまうの? 終わらなければいいのに…』というぼのぼのの疑問(時間の不可逆性への気づき)もテーマになっていて、その疑問からは『生きることには目的はない。だから、楽しいことが終わってしまってつまらなくなったら、また新しい目的を自分でつくればいいんだ』というサルトル決断主義が、スナドリネコさんによって導かれている。ただしこれら二つは、もうすでに議論したテーマなので、ここでは敢えて触れない。「時間の不可逆性への気づき」についてはhttp://d.hatena.ne.jp/ukpara/20070831を、「サルトル決断主義」についてはhttp://d.hatena.ne.jp/ukpara/20070829を参照。